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 名も無き崖に、寄せては返す漆黒の波。真夏の濁った積乱雲、月の光を闇に閉ざす。今日も私は、夜の帷に包まれる。


 この崖は、私の居場所。
 此処には、確かに私がいる。












独り、崖にて

名無しA















 ここから観る空は広い。教室からふと見上げる青空よりも、校庭の真ん中から仰ぐ夕空よりも、眠りにつく前に眺めた夜空よりも、この空は広い。世界から隔離されたこの崖からは、私の知るどの空よりも大きく、透き通った天空を瞻望できる。



「ロマンチストなんですねっ」
 あるとき、数少ない友人の1人は私をそう称した。揶揄したつもりは微塵も無さそうだったし、誉め言葉として受け取っている。高料は口数こそ多いが、人を傷つけたり不快にさせるような言葉は決して口にしない。
 羨ましい。感情の表現も意思の疎通も苦手な私は、人とどう接すれば良いのか分からないから。饒舌な新聞部員の他愛もない話に耳を傾けている時は、特に思わせられる。
 私自身の感情や意思ともあまり縁がない。半年前に父親がこの世を去ったときも、ついに私の平常心が崩れることはなかった。自分でも驚くほど落ち着いた心境で、父の最期を看取った。
 もしかしたら私は、人間としての感情の一部が欠落しているのかもしれないな。
 客観的に考えれば、これは深刻な問題なのだろう。が、それでもやはり、寂しがるようなことは何もない。当たり前なんだ、と自分に言い聞かせる。



 悩める私を他所に瞬く、一面の藍色の上にちりばめられた光。
 立ち上がり、両手を少し広げて再び空を仰ぐ。此処から視界に入る無数の星は、私の存在よりも遥かな太古から天を支配し、今も誕生と消滅を繰り返している。それに比べれば私の悩みなど、足元で人知れず生きる雑草、名も意思も持たない存在と変わらないのだろう。私もまた、小さな存在の一つに過ぎないんだ。
 膝を曲げて腰を下ろす。波打つ海、薫る風、鼓動する大地。私は、暫くの間、瞼を閉じて広大な地球を感じていた。




 いつの間にか満月が雲を払い除け、高く高く昇っていた。
 ……そろそろ戻ろう。どうやら今日もまた、門限を過ぎてしまったらしい。
 此処と宿を隔てるのは、月明かりの届かない暗闇の森。しかし、今まで幾度と無くこの崖を訪れているので迷うことはない。たとえ月光を見失っても、私の跡が迷路を貫く道となってくれる。



 腰を上げ、崖に背を向け、満月にしばしの別れを告げながら、私は森の先の世界に向かって歩き始めた。



「やばい、また犬か!」
 不意に、聞き覚えのない声が響いた。咄嗟に身構え、静寂に身を潜める。瞬間、暗闇に慣れた目が黒い野球帽を捉えた。
 ……男子生徒か。此処から姿の確認はできない。少し高めの声音から推測すると、恐らく一年生だろう。この区域には立ち入り禁止のはずだ。自分だけの桃源郷に踏み入れられたようで心地が悪い。

 思い切った私は、堂々と前に進んで声をかけた。


「ここで何をしている? 男子は立ち入り禁止のはずだが。」





(イベント「森の中にて」に続く)