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桜舞う空

いすと
















―――――――気づけば彼女は俺の前にいた。

彼女と出会い、一緒に過ごし、そして別れた親切高校の屋上。

空の色が青から黒に変わっていること以外は何一つ変わっていないあの場所に。

彼女は――――芳槻さらはいた。

今となっては懐かしい高校の制服に身を包んで、

つややかな黒髪を桜色のリボンでまとめて、

あのときの姿のままで、そこにいた。


「…さ…ら……?」


口から漏れた言葉は、すぐに消えそうなほど小さかった。


「……ありがとうございました、新藤君。 
 
 お父さん以外にも信じれる人がいるかもしれない、と少し思うことができました」


笑顔で感謝を述べた彼女は、笑顔のまま後ろに下がる。

記憶が、フラッシュバックする。


「…やめろ……やめてくれ…!」


俺は結末を知っていた。なのに身体は少しも動かなかった。
 
彼女は少し寂しげな微笑みを俺に向け、


「本当に…ありがとう………バイバイ」


その身を宙に投げ出した。


「さらっ!!」


ようやく動き出す身体、遅すぎるスタート。

必死に走る俺を尻目にどんどんさらは落ちていく。

間に合わない、思う前に跳んでいた。

届け、心から願った。

伸ばされた手は、強く空を掴んだ。


「さらぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」


闇の中にさらが堕ちていく。

あらゆる感情が込められた叫びは、どこに届くことも無くゆっくりと消えていった。

















「…………ッ!!」


狭い部屋の中で眼が覚める。多量の汗によって肌に張り付いた服が酷く不快だった。

時刻は6時少し過ぎ。窓から差し込む日の光が少し眼に痛い。

二度寝してやろうかと思ったが、今日の朝食は自分の担当だったことを思い出ししぶしぶ身体を起こす。

まずはこの汗をどうにかしようと考え、

――――――軽くシャワー浴びるか。

頭を掻きながら風呂場へと足を進めた。





シャワーを浴び終え、さっぱりしたところで食事作りを開始する。

最初の頃はかなり苦心したものだが今では手慣れたものだ。

軽く焼いたトーストを中心に簡単な野菜炒めと卵焼き、ついでに昨日の晩の残り物を食卓に並べる。

時計を見た。七時半少し前。

…そろそろかな。

コーヒーをカップに注ぎ、一足先に席に座る。

食事を取ること数分、ひょっこりと緑髪の女性が眠そうな顔を出した。


「……おはよう、です」

「おはよう」


視線も向けず食事を続けたまま挨拶を返す。


「むー、何だか新藤君がいつも以上にそっけないです。ナオっちは寂しいですよ?」

「気のせいだ」

「むー……」


唸りをあげる緑髪の女性―――高科奈桜、通称ナオ―――の前にコーヒーの入ったカップを置き、少し牛乳を注いでやる。

ありがと、と呟いてナオがカップを口に運ぶ。

わずかな沈黙、食器が立てる音だけが静かに響く。

そうこうしている内に食器が空になる。流し台に食器を運び、出かける準備をしに自室に向かう。


「もう行くんですか?」

「ああ」

「そっか……残念だなぁ、もう少し時間があったらお弁当を」

「作らなくていい」

「酷い!」

「酷くない!」


そこはかとなく産業廃棄物を思わせる香りがする弁当なんか二度と見たくない。

っていうかあんなもんどうやって作った。


「失礼ですね! 少しは上達しましたよ!」


ナオの抗議を完全に無視して荷物を担ぐ。

――――――お前の場合、少しじゃ無意味だろうが

心の中だけでの呟き。口に出せば茶碗が飛んできたかもしれない。


「……よし、じゃ洗い物は頼んだぞ」


そう言い、扉を開けて外に出た。

暖かな陽光を感じ、ふと空を見上げる。

さらが死んだ日と同じく、気分が悪くなるくらい澄み切った青空だった。







「新藤、先に上がるぞ!」

「406……、ああ……407」


午後6時。練習を終えて帰っていくチームメイトを見送りながら素振りを続ける。。


「…408……409……410……」


高校時代、生粋の野球馬鹿とやったように無心でバットを振るう。


「…411……412……413…」


この時間は好きだった

何も考えなくていい。

自分の事も。一緒に住んでいるナオのことも。

そして、さらのことも。


「……414……415……416……」

「……う……藤…」

「417……418……419……」

「オイ、新藤!」


突然の怒鳴り声。

素振りは続けたまま目だけ横に向ける。

コーチの姿が視界に入った。


「……、420……何ですか、コーチ…421……」


盛大にため息をつきながらあきれたようにコーチが言う。


「お前もう上がれ。少しやりすぎだ」

「大丈夫です……422……まだ、やれます……423」

「ダメだ。ただでさえお前の練習量は半端じゃない。これ以上すると壊れるぞ」

「…………424」


最後に一回強く振ってバットを地に下ろす。

振っているときはなんとも無かったバットは、下ろした途端に鉛のように重くなった。


「ったく、お前の練習中毒も相当なもんだな」

「……練習するのは別に悪いことじゃないでしょう」

「まぁ、それはそうなんだが………何かお前の練習は違うんだよな、他の奴と」


バットを持ち上げようとした腕の動きが、止まる。


「……どこが、ですか?」

「いや、どこがと言われても上手くは言えないんだが…………他の連中と違ってお前には…『先』、が無い」


「…見込みが無いってことですか?」


「あ、いやそうじゃない! ただ…他の奴らはどんなものかは知らんが、何らかの目標を持ちその為に練習している」


だが、と監督は一つ間を取って、


「お前にはそれが無い――――――練習のその『先』が無いように思えるんだ……なぁ新藤、お前何の為に練習してるんだ? 」

「……………………………………」


問いには、応えない。

踵を返して立ち去る。



「新藤」


――――何の為なんだ?


質問の意図が込められた呼びかけを無視して足を進める。

意図せず、口からポツリと声が漏れた。


「…………俺だって、知るか」


小さく小さく呟かれたその言葉は、寂しげな響きを伴っていた。

















プルルルルル………プルルルルル………ガチャッ

数回のコール音の後、ナオの携帯に繋がった音がした。


「もしもし、ナオか?」
           
『どうかしましたか、あなた?』

「…………………」


絶句。数秒の間をおいてようやく声が出る。


「……ナオ、その冗談は心臓に悪い」

『一つ屋根の下に住んでるんだから別に嘘じゃないですよ』

「いや嘘だ。とてつもない大嘘だ」

『むー……ま、いいです。で、何か用ですか?』

「練習が早く終わったから一緒に飯でもどうかと思ったんだが……」

『ひょっとしてそれって』

「違う」

『まだ言ってませんよっ!』

「お前が何を言うのか正直全く見当がつかないけどとりあえず先手を打ってもう一回言っておく、違う」

『せ、せめて最後まで聞いてからでも…』

「イヤ」

『……うう、新藤君が鬼畜になってしまいました』

「人聞きの悪いことを言うな。で、どうする?」

『そうですね……特に予定無いですしいいですよ』

「分かった、何か食いたいものはあるか?」

『満漢全席!』

「却下。お前はどんだけ食うつもりだ……もっと他に無いのか?」

『う〜〜ん………じゃあ、新藤君が決めていいですよ』

「俺が? 居酒屋ぐらいしか知らないんだけど……」

『別にいいですよ』

「分かった……じゃあ……」


店の場所と待ち合わせの時間を簡潔に告げる。


『了解です。……ところで何かありましたか?』

「……何で?」

『いえ、新藤君から電話をかけてくることってめったに無いですから。なにかあったのかなぁ、と』

「……別に。なんとなくそういう気分になっただけだ。じゃあな」


ナオの返事を待たず俺は携帯を切った。



 


―――――――――――――――――――――――――




―――――――――ナオと再会したのは、高校を卒業して一年後の春。

さらの命日の事だった。

春と呼ぶには少し暑い日差しの中、彼女は俺より先に墓参りに来ていた。

その時、俺は初めてあの場所で人に会った。




「あなたならあの子を救えると、そう思ったんですよ」




高校時代、教室の中で聞こえていた声とは全く違う声。

明るく感情に溢れた響きとは対照的な静かな響き。




「自分を責めないでください。あの子の歯車を狂わしたのは、私だから」




自分を責める言葉には感情が無い。

無機質な声からは何も読み取ることは出来ない。

彼女とさらの間には何があったのだろう、とぼんやりと思った。知りたいとは思わなかった。




「だからあなたまでさらと同じにならないで」




何を思ったわけでもなく天を仰ぐ。

蒼く蒼く広がる空が、なぜか酷く気持ち悪く思える。




「お願いだから」











―――――――――――――――――――――――――





「うーー、おかみしゃん! もう一本ですぅ!」

「ちょっとお客さん、飲みすぎだよ。もうやめときな」

「なに言ってんでしゅかぁ! お楽しみはこれからですよぉ、アッハッハッハッハッハッハ!!」

「……………………」


真っ赤な顔で盛大に笑うナオを見てひそかに嘆息する。

ナオを連れて居酒屋に来たことを今更ながら少し後悔した。

こいつがこんなに酒癖が悪いと知っていたら誰が居酒屋になど連れてくるか。



「ゴクゴク……ぷはーっ!やっぱお酒は日本酒に限る! 何升飲んでも飽きない!」

「普通は飽きる前に酔いつぶれると思うんだが」

「何言ってんでしゅか新藤君!他の人ならいじゃ知らず、
わひゃしにとってはお酒なんてジュース、いやむしろ水みたいなもんでしゅよ!」

「…さいですか」


……所々呂律が回ってないのは指摘してもいいんだろうか?


「だいたいですねぇ〜、お酒を飲んで酔いつぶれるなんて日本人の風上にも置けな………
……ん? んん?んんんんんんんん!?」


何やら唸りはじめたナオはじーっと俺のほうを見つめ、


「あ、ああ〜〜〜〜〜〜〜〜!!! 新藤君全然飲んでないじゃないですかぁ! 最低です! 鬼畜です! 非国民です!」


「何故に酒を飲んでないだけでそこまで言われなきゃならん! というか……見ろ、ちゃんと飲んでるじゃないか」


目の前に置いてあったコップを持ち上げて見せるも、ナオは止まらない。



「嘘ですっ!! ビンの数が全然少ない! なんでまだ二桁に突入してないんですか!!」

「……お前が飲みすぎなだけだ」

「そんなことないですよぉ! ささっ、どどっと一気に一気に!」


トクトクというよりはドボドボと酒をついでくるナオ。

表面張力ギリギリの線でピタッと止めてるのがすごい。周りに飛沫一つ飛んでないのがさらにすごい。

ハァとため息一つつき仕方なしにぐいっと一気に酒を飲み干す。

服に多少こぼれたのはこの際気にしないことにした。


「そうそう! その意気でもう一杯……ん、もうお酒がないですね。おかみしゃん、日本酒とおつまみ追加ぁ!!」

「………財布、大丈夫かなぁ……?」


少しだけ財布の心配をしながら、真っ赤になって気をよくしているナオを見つめた。

鮮やかな緑色に染まった髪。今はだいぶ崩れているがそれでも整った顔立ち。

どこと無くさらと似通っているように見える。が、やはりどこかが決定的に違う。

無口でおとなしいさらと、明るく自由奔放なナオ。

外見は似ていても、二人の性格の違いがその差異を生み出しているのかもしれない。

ぼぅ、と暴れているナオを見つめていたその時、

笑っているナオとさらの姿がふと重なった。


――――もし、さらが生きていたら、こんな風に笑っていたんだろうか?


一瞬頭をかすめる疑問。

数秒の思考の後、それを切って捨てた。

さらは死んだ。『生きていたら』と考えても何にもならない。

考えた所でさらが生き返るわけでもないのだ。



そう、さらは死んだ。――――俺が、殺した。




苦笑と自嘲が混じったような笑みを漏らして最後の一滴を飲み干す。

時計を見ると店に入ってからだいぶ時間が経っていた、というかもうすぐ閉店時間だ。 


「あの……お客さんそろそろ……」

「何言ってるんでしゅかぁ! 今夜はオールナイトです!
 店が閉まるまで皆帰しませんよー!」

「いや…だからもう閉店時間なんですが」

「そんなのどうでもいいですよ!」

「い、いやいやいや! 全然よくないですから!!」

「……あ、切れた。板さん、日本酒とりあえず一升!」

「人の話聞いてますか!?」


板前さんが説得してるようだが、あの調子では100年かかってもナオは説得できまい。

……仕方ない。


「ナオ、帰るぞ」

「新藤君まで何言ってるんですか!? 今日は皆で酒の海で溺れ死ぬんじゃなかったんですか!?」

「妄想はお前の頭の中だけにとどめとこうなー、ナオ。
 寝言は寝てから言えばいいからなー」

「むぅ…なんか新藤君強引です。……あっ、さては夜道の暗がりに連れ込んで嫌がるナオっちを無理矢モガッ!?」

「うん黙ろうさあ黙ろう頼むから黙ろう」

「むー……わかりましたよっ! はい」

「…………ナオ、その手は何だ?」

「おんぶしてください」

「…………」

「世界がグニャグニャ〜って歪んでるんですよ。まともに歩けそうもないんでおぶってください」

「………………」

「なんならお姫様だっこでもいいですよ〜」

「……さっさと帰るぞ」


ナオを背中に背負う。

予想したとおり、死にたくなるほどの気恥ずかしさに襲われる。

このときばかりはナオの貧相……もといささやかな胸に感謝した。


「…少し揺れるかもしれないけど吐くなよ、絶対に吐くなよ!」

「……………………」

「……ナオ?」


反応がないことを不思議に思ってナオを見る、と


「……寝てる?」


規則的に聞こえる静かな息遣い、それにあわせて上下する胸。

どう見ても寝ていた。


「……ったく。こいつは……」

「あら、寝ちゃった?」


女将が静かに声をかけてきた。


「そうみたいです。…すいません、長居しちゃって」

「それは構わないんだけど……彼女、大丈夫かしら?」


視線の先にはテーブルの上に載っている……もとい積んであるビンや缶の山。


「まあ大丈夫でしょ。酷い二日酔いにでもなってくれれば少しは反省するでしょうし」

「酷いわね」


クスリと綺麗な微笑みを女将が見せる。


「それにしても…今日はちょっとびっくりしたわ」

「何がですか?」

「だって、新藤君っていつもは一人でここにくるでしょ? 
 たまに球団の人たちと来ても静かにお酒飲んでるだけだし。
 それがこんな可愛い彼女連れて来るなんて………」
 
「違います」


女将の言葉を遮って口が動いた。

口調がきつくなっていることに驚きながら、ナオを背負いなおして出口のほうを向く。

今、俺はどんな顔をしているのだろうか。


「俺とこいつとはそんな関係じゃないです。ただ一緒に住んでるだけの……同居人ですよ」


背中にいたナオが震えた気がした。気のせいだと思い込んだ。


「……新藤君?」

「……ごちそうさまでした」


店の戸を開け外に出る。

夜の空気は、心なしかいつもの夜より冷たく身に沁みた。









コツ……コツ……コツ……


静かな夜に足音だけが響き渡る。

雲がかかっているのか月は全く姿を見せない。新月なのかもしれない。


「―――、新藤君」


もうすぐアパートに着くという所でナオから声がかけられた。酔っている割にははっきりした声だった。


「ナオ、起きたのか。吐きたいかもしれないけどまだ吐くなよ。すぐ着くからもうちょっと我慢して……」

「まだ、さらのことが忘れられませんか?」


唐突な質問。戸惑いは一瞬だった。


「―――――ああ。多分一生忘れられないだろうな」

「……新藤君が責任を感じる必要は無いですよ。あの子を狂わせたのは、私なんですから」


背中から回されるナオの腕に少し力が加わる。

ナオの温もりを感じる。口が、勝手に動いた。


「……俺な、あの日の夢を見るんだ」

「え?」

「さらが死んだ時の夢を見るんだ。手を伸ばしているのに、必死になってるのに結局は助けられないで終わる夢を……。 最後に気持ちよく起きれたのはいつだったかな?」
 
 
 「……」
 
 
 歩みを止めることなく自嘲の笑みをこぼす。
 
 
 「初めはな、未練が残ってるんだと思ってた」
 
 「…違うん、ですか?」
 
 「……それが無いって言ったら嘘だな。でもある日思ったんだ、これは『罰』だってな」
 
 「『罰』?」
 
 「俺はさらに『人を信じれるようになるまで手伝う』って約束した。
 ……なのに俺はそれを守れなかった、さらに俺を信じさせてやることが出来なかった。
  だからあの夢は約束を破った俺への…『罰』だ」
  
  
 「……、さらは、あの子はそんなこと気にしてません。 新藤君を責めたりはしません」
 
 「……だろうな。でも俺自身が許せないんだ。
 もう少し…もう少しさらのことを考えてやれたら、さらは死なずにすんだのかも知れない。
 ……今も、俺の隣で笑顔でいてくれたかもしれない」
 
 
 階段を上り自分の部屋の前につく。少し手間取りながらドアの鍵を開けた。
 
 
「『私がさらの歯車を狂わせた』。前にそう言ってたな、ナオ。事情は知らない。 
 お前が何をしたのかも知らない……でもな、ナオ。
 お前がさらに何をしたとしてもな、あいつを殺したのは俺だ。
 さらに最後のきっかけを与えてしまったのは、俺だ。
『助けたい』、『何とかしてやりたい』と思っていながら、結局は何も出来なかったこの大馬鹿野郎だ。
 それを、覚えとけ」
  
「……新藤君」
  
「……着いたぞ、もう降りろ」
  
  
ナオが降りる気配は無い。それどころかいっそう強く抱きついてきた。
  
  
「ナオ?」
  
「新藤君。―――今、一人でも、新藤君が信頼している人は、いますか?」
  
「いない」
  
  
即答した。考える時間すら必要ない。
  
人を好きになるやり方を忘れてしまった。信頼の仕方が思い出せない。
  
昔は自然と出来ていたこと、今では必死になってもできない。


  
俺は、人を信じれなくなってしまった。

  
  
「――――――――、」


口を開いたナオが迷ったかのように口を閉じ、再度開けた。


「―――――――私も、ですか」

「…………え?」

「新藤君は……私のことも、信じてないんですか?」


そうだ、と言おうとした。

考えるまでも無い問いかけだった。

新藤 直弥はもう誰も信じられないのだから。

だから、そうだ、と言おうとした。

ナオも例外ではない、と伝えようとした。

なのに、


「……………………」


声が、出ない。

口を開き、息を吸い、喉を震わせようとし―――――




――――――――それでもやっぱり何一つ言葉は出てこなかった。




「……ちょっと、飲みすぎたみたいですね。
 ごめん、なんか変な事言っちゃったみたいで……忘れて」

「…………ナオ」

「お願い、忘れて」

「………………、分かった」


ナオを背から降ろす。背が凍えたような錯覚を覚えた。


「ナオっちは眠くなってきたんでもう寝ますね………おやすみなさい」

「………………」


遠ざかるナオの姿を俺は無言で見送った。

何も、言えなかった。

居酒屋を出てから一度もナオの表情は見ていなかった。

ナオは、どんな顔をしていたのだろうか?


「―――――――、っと」


唐突に訪れた目眩み。少し飲みすぎたのかもしれない


「……酔いでも醒ますか」
  
  
呟き、外へと向かう。

  
「ちょっと寒いな」
  
  
春に入ったばかりの夜の空気は、まだ少し冷たかった。
  
身体を冷やすのにはちょうどいいか、と背を壁につけてズルズルとその場に座り込む。
  
そのままぼうっと辺りを眺めていると、ふと何かが視界をよぎった。
  
  
「……桜?」
  
  
空を見上げる。少し赤みを帯びた桃色の花びらが宙を舞っていた。
 
 
「そうか、もうそんな季節なんだな……」


しばらく、舞い散る桜をただ眺める。

頭に浮かぶのは一人の女の子。

桜色のリボンが印象的な、女の子。

  
「……桜空(さら)、お前もどこかでこの桜を見てるのか? 父親と一緒に見てるのか?」
  
  
天を見上げて呟く。

天国などありえない、そう信じていた。

それでも今だけは存在していて欲しいと思った。
  

あっちでさらは笑顔でいると信じたかった。
  

受け入れたはずだった彼女の死。なのに何故今になって胸が締め付けられるのか。
  
久しく忘れていた感情。ナオと話をしたからか、それとも酒のせいか、閉ざした心から漏れ出していた。
  
  
「なぁ、さら……夢の中でさえお前を救えない俺だけど、お前のために、泣いてもいいか……?」
  
  
答える声は無く、心の底から漏れ出した感情は水滴となって頬を伝う。
  
桜舞う夜に、誰にも知られることなく、男はいつまでもいつまでも涙を流していた。


  
  
  
  
桜は咲く 鮮やかに
  
  
  
桜は散る 儚げに
  
  
  
残されたのは哀れな木 花を忘れられぬ哀れな木


  
老いて枯れるはいつの日か 朽ちて死ぬのはいつの日か
 


永久に咲かぬ花を想い 木はいつまでも待ち続ける



……再び桜が舞うことを、願いながら



(終)