その手をもう一度
木沢
0.
ストーブの近くにいる私はそこから出る音を聞いていた。焚き木のような激しさのないゴーっと燃えるその音が好きだった。だけどむわっとした暖かさに体がかゆくなってしまう。……いや、かゆくなるのはじっとしていられないからで、それができないのは今取り組んでいる問題集のせいだろう。「こんなの分かんないよー!」って声に出して叫べればどんなに楽だろうか。もちろんここは図書館だからそんなことはできないって分かっているけれど。
机を挟んで向こうには一緒に受験勉強をしている貴子の姿があった。ちらりと彼女のをのぞくと一時間で既に私より五ページは進めている。同じものをやっているはずなのにどうしてこれだけ差があるのだろう……と、以前彼女に聞いたら「私が凄いんじゃなくて、この時期にほとんどやっていないのの方が凄いの」と私を指して割と真剣な顔で言われてしまった。他の人に言われるなら「うるさいなー」ってふざけて返せるけど、彼女にだけはどうしてもしょんぼりしてしまう。
「どうしたの?」
ぼーっとしていたらしい。彼女は心配そうにこちらを見つめていた。その顔はいつもは勝ち気に見える眉を八の字にしていた。――そう、これなのだ。しょんぼりしていた時の私にも、同じような顔で「言い過ぎたねごめん」と言ってくれた。
「ううんなんでもないよ。それよりちょっと、ここ教えてほしいんだけど……」
「どれどれ?」
彼女は私の問題集を自分が見えるように九十度回した。そして見てすぐに彼女は眉をひそめた。
「ここ、私が前に教えたところじゃない」
「実はそうなんだ」
「物覚えが悪いんだから」
「いやいや先生の教えが良くないんですよ」
「……もう教えてあげないわよぉ」
「あは、ごめんごめん」
「もう」
私たちは静かに笑い合う。少しかゆみが薄れてきた。
1.
十二時を過ぎたので、昼食を取ろうという話になった。図書館を出ると外はちらりちらりと雪が降っていた。空一面に雲が覆われている。昼間だというのに景色は蛍光灯が一本切れたみたいに暗くなっていた。
「どこで食べる?」
「ここからだと一番近いのはイタリアンの店かな。それでも歩くとちょっと遠いけど……ともかく行ってみましょ」
しかし歩き始めてから五分ほどで、ごおっと急に風が強くなったかと思うと、雪の降る量が突然増し始めた。私は慌ててバックに入れた傘を取り出す。彼女も自分のバックに手をやり、そしてはっとした顔になった。
「あっちゃー。傘、図書館に置きっぱなしだったよ」
どうせ昼食が済めば戻ってくるから後でも取りに行けるが、だからこそ今取りに行くのをためらわせる。そんな思案をしている彼女を見て、私は開いた傘を彼女の上に掲げた。
「こんなことなら折りたたみにするんじゃなかったなー」
折りたたみ傘は強度もいまいちだし、何よりバックに入れるくらいの大きさとなるとそれだけ傘も小さくなってしまう。一人で歩くには十分だが、二人となるとどうしても肩がはみ出てしまう。
「いいよ、濡れちゃうじゃない」
「いいっていいって」
しばし押し問答をしたが、結局は私が押し通して歩くことになった。だけど彼女はまだ気にしているみたいだった。人差し指を下唇にあてて、考え込むしぐさをしていた。
「んー。じゃあねぇ……」
彼女は自分の左手に付けていた手袋を外すと、傘を持っている方の、私の右手を握った。
「あっ」
「傘を持ってたらポケットにも手ぇ入れられないでしょ。こうすれば暖かいじゃない」
確かに私は手袋を付けてこなかったので手がかじかみそうだったが……しかしこれはどうにも照れくさい。しかし、彼女は一回決めたことには頑固な子だから何を言っても無駄だろう。
途中で高校生のカップルと遭遇した。彼らも同じ店に入るらしい。一つのマフラーを二人は首にかけて寄り添っていた。何を思ったか彼女は対抗するかのように私に寄り添ってきた。その時、私は彼らの傘が大きいことに少し悔しさを覚えていたのだが、それは黙っていることにした。
2.
食事から戻ってきた私たちは図書館へと戻りはじめた。そしてもうすぐそこへ辿り着くちょうどその頃に雲の隙間から太陽が出始めた。道路に残った雪が光に照らされて輝いている。風の音もなくなった。サク、シャリという足音だけなのは耳に心地よい。冬の合間に現れた穏やかな気候に迎春の二文字が頭をよぎる。ああ、そういえばあと少しで正月だったなどと思っていると、隣で彼女の頬は餅のようにふくらんでいた。
「何よー。これは私たちに対する嫌がらせ?」
「いいじゃない。ふられて歩くよりはずっとましよ」
「でも図書館までもう数メートルもないのに」
そう言って彼女は唇を尖らす。そんな彼女が可愛かった。そう見ているとその唇にミートソースのが付いているのに気づいた。どうもそれが気になったので、私は話を変えようかなと思った。
「それはそうと、あの店の料理おいしかったね」
「うん。でも、あの人が気になってちょっと集中できなかったかな」
「あの人って?」
「さっきのカップルの女の方」
「ああ、凝視してたもんね」
「え、そんなには見てないわよ」
「見てた絶対見てた」
見てないわよーと反論していた彼女だったが、ふいに表情を曇らせた。
「何かうらやましくてね」
「え?」
「だってとても幸せそうな顔をしていたじゃない。……流石にあそこまでベッタリするのはどうかなって思うよ。でも私も、そこまで想える彼氏がいたら素敵だなぁって」
「そうかな」
「沙織にだっているじゃない」
「わ、私は……」
「いるでしょ?」
「いるけど……何かもう過去形になりそうというか」
彼氏は推薦でかなり頭のいいところに進学が決まってしまった。またその学校の場所が遠いので、引っ越してしまうらしい。1週間前にその話を聞いて以来、私は連絡を取っていない。
「私のことなんかよりさ。貴子はクラスの中とかに好きな人いないの?」
何とか話題を変えようとしたが、そこまで言って私は自分の発言のまずさに気づいた。案の定、彼女は勝ち気に見える眉をひそめてこっちを見てきた。
「クラスの人はちょっと……ね」
「…………」
「というか、同い年の人を恋愛対象として見れないのかな、あはは。出会いはクラスの方が多いんだからそんなんじゃダメなのにねー」
「ねえ、貴子。私はもう気にしてないよ。だから……」
「ごめん。何だかかえって沙織に余計な気を持たせているみたいで嫌なんだけど、それでもこれはわたしの個人的な気持ちだから」
「……そう、分かった。でも一つ聞いていい?」
「何?」
これ以上は続けても逆効果だろう。だから私はできる限り悪戯っぽく笑って言ってやった。
「じゃあ、年上ならいいわけ?」
「…………」
「……黙って微笑まないでよ」
3.
冬の太陽はすぐ沈んでしまう。夕暮れの光が窓を射した。窓ガラスを突き抜けた光が彼女の白い顔を照らしている。窓枠にさえぎられたところは暗くなるので、その顔は橙色のコントラストを描いていた。しばしそれに見とれていると彼女はすっと首をこちらに向けた。
「そろそろ帰ろうか」
図書館は既に人も少なくなっていて、閉館時間もそろそろ近かった。
「……そうだね。私もう限界ー」
帰りのバスに乗るために停留場へと向かったが、ちょうどそれは私たちの目の前で出発してしまった。バスは時刻を無視してくるから困る。思わずその場で足踏みをした。すっかり土と混ざった雪がベチャリと音を立てる。時刻表を見ると、次が来るまでまだ時間がありそうだった。
「どうしようか?」
「今更戻るのも、ね……」
「あ、沙織。あなたのその後ろ」
「なあに?」
「椅子があるわよ。ほら」
「本当だ」
停留場のすぐ近くには、かつて店を経営していたような寂れた家があったが、その入口に取っ手も背もたれも無い丸い四脚椅子が二つあった。
「ちょっとそこに座ってて。私は何か買ってくるよ。小腹もすいたし、喉も乾いたしね」
「それなら私、肉まん欲しいな。あ、ジュースは炭酸ならなんでもいいよ」
「分かった分かった。じゃあそこの席しっかり空けておいてね」
「うん」
椅子に座った私は特にどこを見るわけでもなく視線を定めてぼーっとしていた。しばらくそうしていると、向こうからこちらにやってくる一人の影を認めた。その男が誰だか分かった時、私はうんざりした気持ちになった。男は私に気がつくと馴れ馴れしく近寄ってきた。
「やあ、奇遇だね」
「……こんにちは」
「何してたの?」
「図書館で受験勉強」
「ああ、そうなんだぁ。これまた奇遇だね。俺もさっきまでダチの家で受験勉強してたんだ」
「……別に、今の時期なら誰でもすることでしょう」
「そんなつまんないこと言うなよな。沙織ちゃん」
「…………」
「ねええ、沙織ちゃんは今ひとりなのかな。…………あ」
突然、男の動作が固まった。不審に思い、男の視線の先を振り向くと、そこには唇を一文字に結んだ貴子の姿があった。
「…………」
彼女はただ一つの言葉も発しない。その雰囲気に男は気まり悪そうにした。そしてふいにハッとしたような顔を作ると、「あ。俺、用事があったから帰るわ。じゃあなー」と別に誰も聞いていないのに、男は一人でそう言って、そそくさと行ってしまった。彼女は何事もなかったかのようにもう一つの椅子に座ると、コンビニのロゴが入った袋から肉まんと炭酸飲料を取りだした。
「はい、約束の物。お金は後でいいわよ」
「あ、ありがとう……」
食べているときもそれが終わった後も、そのまま私たちは会話らしいものがなかった。早くここから去りたいのだろう。彼女はさっきから時刻表ばかりを見ている。その間、私はあの男との出来事を思い出していた。あれはいつの頃だろう。男は私に告白してきた。その時には、既に私には彼氏がいたので断ったのだが、驚いたことに好きになった理由というのが、男のやっているゲームの登場人物と私の名前が同じだから、らしい。それだけで告白されるなんてたまったものじゃない。……最悪なことに、男はこのことを何の恥もなく周りに公開していたので、それ以来、私を名前で呼ぶ人が少なくなってしまった。それだけでもショックだが、さらに嫌なのは、たまに名前を呼んでくれた人が、その後でなんだか罰の悪そうな顔をしてしまう時。私は自分の名前が好きなのになんでこうなってしまうのか。――だけど彼女だけは前と変わらずに呼んでくれる。そのことがとても嬉しかった。
やがてバスがやってきた。乗ると車内は暖房が効いていて、少し心に余裕ができた。もうさっきのことは忘れて彼女と談笑することにした。だって私は彼女の笑顔を見る方が好きだから。
4.
バスから降りてそのまま真っ直ぐ帰ろうと思っていたが、貴子は公園に寄らないかと誘ってきた。特に断る理由もなかったので行くことにした。たどり着くとそこは静かだった。冬の、ましてや夜遅くの公園に来る人など私たちぐらいなものだろう。せいぜい北風がきいきいとブランコを動かしているくらいのものである。それを見た彼女が「誰かがブランコをこいでいるよ。怪奇現象だー」ってふざけていた。
「どうしてここに来たの」
「ん、別に。でも、夜の公園って素敵でしょ。だから、なんとなく行きたくなってね」
「ふーん」
「分からないかなあ」
「でも、確かに夜の公園って雰囲気がいいわね。空も何だか澄んでいる気がするし……」
見上げたその空に一つ、ひときわ輝く何かがあった。
「あ、飛行機」
「どこどこ?」
「ほら、あそこ」
「…………違うわよ」
「違うって何が?」
「あれは星よ」
「星? でも動いているような……」
「そろそろメガネでも買ったら?」
「目は悪くないわよ。両方Aだもん!」
もう一度注意して見てみる。輝くそれは揺らいで定まろうとしない。近くに木があったので、それで距離を測ってみた。すると動いていないのだと気づいてしまった。なんだか恥ずかしいのでじっと立ち止まって顔を動かさないようにしてみたけど、やはりそれは星のようだった。
「やっぱり止まっている、のかな」
「ほらー」
「ううん絶対に飛行機だと思ったんだけどなあ……あら?」
「どうしたの」
「さっきまで気づかなかったけどあそこにも星があるわね」
「えっどこどこ?」
「ほら、あそこよ」
「どこよ」
「うーん……あ、そうださっきの輝いている星を見て」
「ふふ、星って完全に認めたわね」
「……いいから」
「はいはい。それでどうするの?」
「どこかで聞いたんだけどね。輝いている星を見つめていると暗くて見れない星も見ることができるんだって」
「へー本当に?」
彼女は半信半疑のまま、それでも目を凝らし続けた。
「あ、見えてきたかも」
「でしょ?」
「あの星の右下ね。一回り小さいのが大きいのの近くにいて、なんだか仲がよさそうね」
「実際は遠く離れているのにね」
「なんだか素敵じゃない? 離れていても一緒にいられるなんて」
「…………」
「だからね、遠距離恋愛もありなんじゃないかって私は思うの」
「……ありがと」
「ま、その前に沙織は合格できないと駄目だけどねー」
「うっ」
「今のままだと合格できる確率は、高く見積もっても二十パーセントくらいじゃない?」
「嘘でもいいから絶対合格するって言ってよー」
「ふふ、冗談よ。大丈夫。合格するって信じているわ」
手をにぎってくれた。手の平にかたい物が入った袋の感触がした。
「これ何?」
「お守り。どうせ正月に買うんだろうけど……まあこれは私からのちょっと遅めのクリスマスプレゼントってことで」
「……ありがとう」
「あっ、私そろそろ帰るね」
「どうしたの?」
「お父さんの仕事を終わるころだから、夕飯を作らないとね」
彼女の母親は彼女が生まれてすぐに亡くなったらしく、そのために家事は彼女が担当しているそうだ。(とはいえ、この時期は彼女の父も手伝っているらしいが)
「間に合うの?」
「ご飯はちゃんと作って置いてあるからそれを並べるだけだから大丈夫よ」
「しっかりしているなあ」
「それじゃあね」
「うん、またねー」
彼女が帰った後、改めてお守りを見てみた。そこには何かのマスコットが付いていた。よく見るとそれは狐だった。
「ちょちょっとこれは違うんじゃないかな……」
とは言ってみたけどやっぱり嬉しくて、しばらくそれを眺めていた。
5.
数か月が過ぎた。当時はだいぶ長い時間だったと思っていたのに、いざ過去として振り返ると短かったなと思ってしまう。雪はすっかり溶け、桜のつぼみが付いたなと思うとすぐに花が咲きだしていた。日も穏やかな陽気で、思わずスキップを踏み出したくなるくらいで――いや、実際に私たちは跳び上がっていた。数週間前に行われた入試結果の発表。既に貴子の合格を見届けてから、私は彼女と一緒に私の志望校へと向かった。そしてその結果を見たとき、喜びが心にぐわっと入ってきて、破裂しそうなくらい胸が高鳴った。彼女は自分が合格した以上に喜んでくれて、一緒にキャーキャー騒いでいた。
そして今日は入学式。たまたま彼女の学校も同じ日にやっていたので、待ち合わせて一緒に帰ることにした。しかししばらく歩いていると、雲はほとんどないのにサーッと雨が降ってきた。
「うわっ。天気予報の嘘つきー」
タオルでもないかとバックを探っていると、上から何かが現れた。見上げるとそれは傘だった。
「はい、冬の時のお返し」
「あ、ありがとう……」
一瞬、『お返し』の意味が分からなかった。少しして思い出したが、あんな些細なことでも彼女は覚えていてくれてたんだと感動した。だけどそれを直に言葉で表現するのは照れくさかったので、悪戯っぽく微笑んで見せて、私の右手で、彼女が傘を持っている方の、左手を握った。
「それじゃあ、私もお返し」
すると彼女は柔らかく微笑む。
「あ、やっぱり沙織も覚えてたんだ」
「覚えているわよ。どんなことだって貴子との大切な思い出だもの」
そんな風に話しているうちに雨は止んだ。通り雨だったらしい。残念だったけど、ふった後の景色は全てが洗い流されたような気がして、これも悪くはないなって思い始めてきた。ふと彼女の方を見ると、道のくぼみにたまった水たまりをじっと見ていた。立ち止まっていたので、私も無理には進まずに止まることにした。
「ねぇ、沙織」
「なあに?」
「高校に入ったら会える機会少なくなるかもね」
「そだね」
「そうしたらさ」
「うん?」
「…………ううん、やっぱりなんでもない」
「……ねえ。さっきの話だけど、夜の公園で星を見た時のことも覚えている?」
「うん、覚えているけど」
「私は遠くに離れているのが近くに見えるだけだって言ったけど、今はあの小さな星は大きな星を回る衛星だったんじゃないかなって思うの」
「え?」
「私も衛星。どんなにあなたが迷惑だと思ってたって、ずっとぐるぐるそばにいてやるんだから」
「沙織……」
「大丈夫だよ。離れてもずっと一緒だから」
ぎゅっと傘を持つ手を強めた。もう雨は降ってないからそれは用をなさないけど、離してしまうのもさびしくて結局そのまま歩くことにした。前を向くと雨にぬれた桜の花びらが一枚落ちてきた。太陽にきらりと光るそれは涙にぬれた彼女の笑顔を映していた。