朽ち果てるその日まで
J-1
「地獄の僧侶」――と、名乗り、呼ばれる男が地獄の塔内にある階段を下りて行った。修験者のような格好をし、腰には二本の刀――さらに片手に錫杖をさげている。
一段降りるたびに、錫杖がちゃらちゃらと音をたてた。遠くに魔物の吠え声を聞く以外は、静寂ばかりがある地獄である。こんな小さな音でもいちいち耳に響いた。
深い、少なくとも旅人は訪れる事の出来ない深淵部に、僧侶は降り立った。ここまで来ると、普通目は役に立たない――垂れこめた暗黒で、光などみじんもない。
しかし僧侶の視界は明瞭だった。こういった些細な点が、彼を常人と区分している。
僧侶は確かな足取りで暗い階層を進んだ、遠くに見える商人に向かって。
「何か食べ物はあるか?」
僧侶の問いかけに、福々しい体型の商人は営業スマイルのまま言った。
「うーん、今日の所はあんまりいい肉ないよ。精霊の肉だからお腹にたまらないだろうね」
地獄に住む精霊の肉は、すかすかしているので誰も好んで食べたりしない。基本、能力を高めたい旅人だけに需要がある。それを承知しているので、僧侶は呆れ顔で言った。
「こんな深いところでそんな肉置いてどうする。旅人は少なくともあと五十階は上の方だ。それ以上、下へは来れない」
商人は頭をかいた。ふっくりとした顔が人の良さそうな笑みを深くした。
「そうだけどね、たまたま手に入ったんだ。出さないともったいないじゃないか、置いとけば腐っちゃうんだから」
ここでも置いておけば売れる事もあるかもしれないしね――と、彼はのんびりした調子で続ける。
もちろん売れる相手とは、地獄中をねり歩いている僧侶か鍛冶屋の事である。
「あいにくだが俺は買わんぞ。肉が無いなら武器か何かないか?」
僧侶はそっけなく返した。元々腹がすいていた訳ではない。むしろ本命は武器の方だった。
「あるけど今日は斧しかないんだ。僧侶は剣じゃなきゃ使わないだろう?」
「当然だ、俺の剣に対する情熱を甘く見るな」
「じゃあ未鑑定品の中から好きなのとっていいよ。もちろん全部鑑定してね」
そう言って、商人はどこに隠し持っていたのか山積みになった未鑑定の道具を、僧侶の前に放り出した。
これをすべて鑑定するとなると、本来であれば二千ペラは頂きたいところだ。こう言う図々しさが無ければ商人をやれない、という事なのだろうか。僧侶はため息を落とした。
「時間かかるぞ?」
「そういえばさ、僧侶はいつごろからここにいるの?」
慣れた手つきで品物を鑑定していく僧侶の様子を眺めながら、商人が問いかけた。
僧侶は目線を品物に落したまま応対する。
「地獄で時間云々を言うのもどうかと思うが……そうだな、たぶん百年分を何回か――千年には届かないと思うぞ」
気心の知れた者同士の世間話である。軽く言葉を交わしているが、内容は重い。一聞のもとにはそうと気づけないかもしれないが。
「どうしてここに?」
聞かれて、僧侶は黙りこんだ。作業の手を休める事はないが、それでも返答に窮してよどみなく動いていた腕の動きを鈍らせた。
「……えらく深入りしてくるな」
珍しい事もある――と、心の内で続ける。商人は申し訳なさそうに眉根を下げ、そして困ったように言った。
「実は僕ねえ、もうだいぶ前から自分の名前も忘れちゃってるんだよ。最近ちょっと考えてみたんだけど、どこからどうやってここに来たのかも覚えてないんだ。何か商売をやってたことは分かるけど、それだけなんだよ。……僧侶がどうやってここに来たか、って言うのを参考にして思いだしたいんだ」
そんな事……と、言いかけて、僧侶は身をこわばらせた。道具を識別していた手が、完全に止まる。
そんな事は……全部覚えている。
苦い思いが胸の内に去来した。
――修羅道に落ちたのだ、自分は。
強さを追い求め、強さ以外の一切を捨て去った時、この身は人のものではなくなった。
姿かたちは変わりなくとも、内に巣くう魂が――もはや人のていを成してはいない。
僧侶は苦しみに耐えるように瞑目した。
「……商人、俺も自分の名前は忘れた。だが、どうやってここに来たかは覚えている。結論を言うが……ここに来るという事は、禁忌とされるまでに、欲望を極める事だ。――俺は強くなりたいと、ただそれだけを思っていた――今なおはっきりと覚えている。他のものを切り捨て、踏みにじり、そうやって行き着くところが――この場所だ。だから、お前もここにいるという事はだ……何かしらの強い思いがあったのだろう。それがどういうものか俺には分からん。お前自身で見つけて、思い出せ」
俺に言えるのはそれだけだ――と、僧侶は言葉を切った。
商人が素直に納得してくれて、僧侶としてはありがたいばかりだった。
商品の中からカードを数枚もらって、僧侶は商人に別れを告げた。
本当の事を言わなかった――いや、真実を隠し、結論だけを教えた。
僧侶に分からないのは、商人と違って自分の名前だけだった。それ以外の事は、痛みを伴うまでに鮮明に覚えている。
昔の話だ――ある武芸者が海を渡った先で、強者のすべてを打ち倒し――そして、最後に……。思考が最果てに達し、僧侶は苦悩の声を漏らした。
「――――根呂、……すまない」
許してくれ、とは口が裂けても言えない。
噴き出す鮮血、顔を濡らした温かい赤、そして――
「……冷たくなっていく、お前の身体」
僧侶は自らに、低く、呪詛の念を吐いた。彼は友だった――心優しい、友であったのに。
思い出してしまえばひどく気分が悪い、手当たり次第に魔物でも何でも殺してしまいそうな。
熱に浮かされていたのか、その時の事はまるで他人事のように記憶している。動かない友の身体を抱えて、天を仰いだ時、彼の視界から光が消えた。
気付いた時には暗闇の中――僅かの光もささない深淵の底、地獄の塔の最下層に膝をついていたのだ。
当時はほとんど目がきかなかった。気配だけで魔物の存在を知り、はち合わせれば戦う――それだけの日々がどれほど続いたのか、これが僧侶にとって、唯一の曖昧な記憶だ。
今や視界には曇り一つない。それは僧侶にとって、亡き友に対して出来る唯一の贖罪である。
「俺はどんどんお前から離れていく。もうここは最果てだ、お前とは無縁の、化け物の巣だ。お前を悲しませた俺に出来る事は、可能な限りお前から離れてやることだけだ」
いつか彼の事を忘れてしまう時が来るだろうか。
塗り重ねた罪から目をそむけ、狂気にとらわれる日が来るのか。
「……もし、そうなったら――――俺は」
最後の締めに俺自身を殺してしまおう。
自嘲的に笑った僧侶の端正な相貌は、生者にあるまじき冷たさをしていた。ここに来た当時、はるかな過去であれば――涙を流す事も、出来たかもしれない。
僧侶の姿は、地獄の底の暗闇に揺らぐように溶け込んでいった。
後にはかすかな血の匂いしか残っていない。