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冬の張り詰めた空気が二人を包んでいた。
俺は白い息を靄のように吐き出した。
隣では恵理が子供のように笑顔を浮かべていた。俺と一つしか変わらないはずの彼女が、やたら幼く見える。彼女はそっと俺の手を握った。

「寒いね」

俺は微笑みながら、そうだなと返した。彼女はくすぐったいような表情で俺に寄り添う。
俺は優しく恵理の頭を撫でた。

「柚紀さんは平気?」

俺はまた、短い返事を返した。
いつも俺は彼女の話を聞く側にまわっていた。それを彼女が望んでいるのかはわからないが、彼女はいつも俺の傍で微笑んでいた。

――君の隣は、本来俺の物じゃなかった。

彼女にとっての想い人は俺なのだろうか?
多分、いや、きっと違う。
彼女は過去の俺、つまり今でいう小杉が好きなんだろう、と思う。
俺は謀らずも、それを利用していただけだ。
それはもう確信に近かったけれど気付かないふりをして、自分をごまかしていた。
真実を彼女に――恵理に告げてどうなる?
彼女が傷つくだけじゃないか。
そして彼女は俺の前から去って俺も傷つく。それならばこのままで良いじゃないか。それでいい。
そう思っては、また罪悪感に苛まれた。
彼女を本当に大切に思うなら、教えてやるべきだ。それが彼女の為に一番良いのもわかっていた。

俺は結局、自分の事しか考えていない。
俺は柚紀。アイツは小杉。
俺とアイツはもう割り切っていた。
割り切れないのは恵理のことだけ。うじうじ悩む自分がまた少し嫌いになった。
恵理の家の前についた。彼女はまたね、と言って家に入っていった。
また、真実を伝えることは出来なかった。

 

君の隣

山鳥マオ




今日も寒かった。
珍しい連休。俺は自由気ままに街を歩いた。最近は暇があれば外をぶらついている気がする。単純に部屋にいてもすることがないからだけど。
少しずつ、街の空から雪が降り注ぎ地面を白く染めていった。
恵理が喜びそうだな、と思い携帯電話に手を延ばしかけてやめた。
俺は昨夜、恵理に全てを告げる覚悟を決めていた。

俺は恵理が勤務する店に入った。あまりイメージの良い仕事とは言えないだろう。
しかし、この店は半分、どこにでもあるような普通の店のように思える。俺は一人でたいして好きでもない酒を呑んだ。

「残念ダタナ、今日、恵理非番ヨ」

誰かの声がして振り返る。
恵理と俺の繋ぐ橋のような存在であり、恵理の商売仲間でもあり、親友。
俺はソムシーの顔を見ながら言葉を返した。

「知ってる」
「ム?ジャア何でココに来た?私に会いに来たカ?」

笑えない冗談。
しかし今日に限っては図星だった。俺は用がない限り極力この店には来ない。
実を言うと、俺はこの店が好きではなかった。とゆうより、恵理がこのような商売をしているのが嫌だったのかもしれない。身勝手な独占欲に自分自身にも嫌気がさして、俺は一つ舌打ちをした。

「……ナニカ悩んでるカ?」
「……あぁ」

俺にしては珍しく素直に言葉が出た。ソムシーは渋ったような顔をすると、ポケットから一枚の紙切れを俺に手渡した。

「相談くらいナラのれる。電話しロ」

そう言うとソムシーは足早に去っていった。俺は残った酒を一気に飲み干して、逃げるように店を出た。
雪は勢いを強めていた。


決意とやらを決めてから、一週間がすぎていた。
自分の意志の弱さには脱帽する。伝えるチャンスなんて、それこそ腐るほどあった。自分は今まで何をしていたのだろうか。
結局、俺は逃げていた。彼女を失うのが怖くてたまらない――とんだ臆病者だった。
今から、新年の鐘が鳴り響くまでに彼女に真実を告げようと再び決心し、俺は携帯電話とくしゃくしゃになった紙切れを取り出して、ソムシーに電話をかけた。


「何ダ?話っテ」

ここは小さな喫茶店。人が少ない、という理由で俺はここが好きだった。
今、俺はようやく一歩を踏み出そうとしていた。
恵理より先に、ソムシーに真相を伝えることになるとは思ってもみなかったけれど。

「俺は―――」

ソムシーは真剣に話を聞いてくれた。俺はなるべくわかりやすい日本語で真相を話した。
もしも彼女が常識人だったのならば、俺のことを頭がおかしいとしか思わないだろうな、と自嘲しながら。

「フーん」

ソムシーはつまらなさそうに呟いた。
作り話と考えたのだろうか、緊張感のまるで無い声。ソムシーは俺の目を見つめて、静かに言った。

「お前の言ウ事、全てはわかラなかっタ。ダから、私が言えル事、一ツしかないヨ」

ソムシーは少し間を置いた。
俺は不思議と彼女の言葉を素直に受け止めることが出来るような気がしていた。
一人で悩んでいるような幾分かはマシだ、という気もして、少し気持ちが軽くなっていく感じがした。

「恵理、最近笑顔増えタ。泣かなくナっタ。幸せダと言っテいタ。」

ソムシーはそう言って席を立った。机には頼んだままのホットコーヒーと、いくつかの小銭が置かれていた。
俺は深く席に座り直して、天井を眺めた。


雪の向こうで恵理の姿が見えた。俺はベンチから立ちあがって恵理を迎えた。この場所に来るのは随分と久しぶりな気がした。恵理と二人でここに来たあの日から、どれくらいの時間がたったのだろうか。

「柚紀さん」

恵理は笑顔を浮かべながら、俺に飛びついた。
俺はゆっくりと彼女を抱きしめた。
これで最後になるのだろう、彼女の温もり。彼女をずっと抱きしめていたかった。
俺は無理に笑顔を浮かべて彼女を抱きしめる手をはなした。彼女は名残惜しいといった表情で、俺を見た。目線をそらして、俺は恵理の顔を見ない。

「今日は、話があって」

俺はようやく言葉をしぼりだした。恵理は何かを期待するように、顔を明るく輝かせた。
また、俺の中に罪悪感が生まれる。
いつからだろうか、恵理の笑顔を見る度に胸が痛むようになっていた。
俺は恵理の顔をようやく見た。そして、俺は恵理に告げた。

「さよならだ、恵理」

恵理の顔から表情が消える。何を言っているかわからない、といったような口調で彼女は俺に言った。

「……どうして?」

俺は彼女――恵理に本当のことを、真実を告げた。
不思議に言葉は途切れなかった。魔法にでもかかったかのように、口から言葉が溢れ出した。
恵理の顔にはもう、戸惑いしか残っていなかった。

「そんなはず、ない」
「わかってるんだろ?恵理。君からしてみれば柚紀は急に性格が変わったはずだ」

違う!と恵理の声が響いた。恵理の頬に一筋、涙が伝った。恵理の泣き顔を初めて見ることに気付いた。涙を拭ってやることはできない。
俺にそんな資格はなかった。恵理の涙が零れる度に自分の残酷さが身に染みるようにわかった。

「柚紀さんだよ…ずっと――傍にいてくれたじゃない……」

恵理は縋るように呟いた。彼女がこんな風に不安になっている時、俺はどうしてあげていたんだろう。過去の自分を問いただしたくなった。
そして俺はまた、彼女を傷つける言葉を重ねた。

「俺は柚紀じゃないんだ……恵理」

彼女はその場に崩れ落ちるように座りこんだ。彼女は声をあげて泣いていた。俺はどうすることも出来ずに恵理を見つめているだけだった。
微かに、恵理の声が聞こえた。

「じゃあ…柚紀さんはどこ――?」
「もう君の愛した柚紀はいない。俺も柚紀も今ではもう、別人だ」

俺は彼女を絶望に落としいれた。
自分は彼女が愛した柚紀ではないのは確かだった。
彼女が愛した柚紀は、小杉として違う人生を歩んでいる男の過去の姿のはずなのだから。

「気付いていたんだろ?恵理は逃げていただけだ」

俺は追い打ちをかけるように言った。恵理はもう俺を見ることはしない。
何故俺は恵理を責めているんだ?
逃げていたのは自分のくせに。
このままでいるわけにはいかないと解っていたくせに、三年も彼女を騙していたのは誰だ?紛れも無い自分じゃないか。
恵理はただの被害者だ。
偽物の俺に騙されて、自分は幸せだと感じてしまっていただけの。
気がつくと俺も泣いていた。泣く権利なんて無いはずなのに、止まることを知らないように涙は流れつづけた。

少しして、恵理は立ち上がった。
涙が止まっていない恵理の顔を、俺は何も言えずに見つめていた。

「さよなら」

恵理の声がまた、響いた。
恵理は俺に背中を向けて、走りだした。彼女が見えなくなるまで俺は彼女の姿を見つめていた。
やがて、彼女の姿が見えなくなった頃、俺は一人で呟いた。

「さよなら」

恵理のいた場所には、雪だけが降り積もっていた。


それから数日が過ぎた。
俺の生活はほとんど変わりばえしなかった。
恵理のメールアドレスや、電話番号は携帯電話のメモリーから削除しておいた。
たまにソムシーからは電話がくるが、一度全てを話した後は全て無視していた。
俺は家から出ると、またブラブラと街を歩いていた。
今日も雪が降っていた。
思えば、今年の冬は雪が多いような気がする。恵理と別れたあの日も雪が降っていたためか、俺は雪を見る度に少し心が痛むように感じる。
どうすればいいんだ?
彼女を欺いた俺は誰に尋ねることもできない。
本当にこれで良かったのか?中途半端な優しさは、かえって彼女を傷つけてしまったんじゃないのか?
何度も自問自答するが、答えが出ることはなかった。他人に聞く訳にもいかない。聞ける訳もない。
今、俺の目の前に現れた、恵理にも。

「柚紀さん」

恵理が誰かを呼んだ。俺ではない。彼女の中の柚紀は俺ではないはずなのだから。
俺は何も言わずに恵理に背をむけた。恵理の姿を見たくなかった。
俺の手をいつかと同じように恵理が優しく包んだ。

「……聞いて」

俺は振り向くことが出来なくなった。
恵理の顔を見れば、また抑えていた感情が動き出す。無理矢理嵌めた歯車がまた狂いだす。
今すぐここから逃げ出したくなった。
しかし、恵理は俺の手を離さない。

「私は柚紀さんが好きだったの」

恵理は少し俺の手を握る手を強めた。恵理の温もりが手から伝わってくる。懐かしい感覚、俺の頬に涙が伝った。

「誰が私の中の柚紀さんなのかはわかりません」

恵理がゆっくりと手を離す。
俺の体は依然として動かない。涙で滲む俺の視界には純白(しろ)い雪だけが降り続いていた。

「ただ、私は…」

彼女の言葉が途切れて、俺はようやく振り向いた。
恵理は泣いていた。彼女から見れば俺も泣いているのだろう。
俺は静かに恵理を抱きしめた。
伝わる温もり、鼓動。彼女の想いが流れこむように、俺の心に響いた。
俺は恵理の涙を拭った。恵理は涙を流したままの顔で笑顔を作った。

「柚紀さん……」

彼女は間違いなく俺を呼んだ。







fin