パーキングエリアの駐車場にあるトイレのそばに高坂茜は立っていた。
夜の駐車場はどこか無機質で怖い。だけど、白と黒に彩られた寂しい風景は自分とダブって見えるなと茜は思った。
ちょうど前方に見える車のライトが突然光り、茜は目を細める。フロントガラスには運転席に中年と思わしき男性。助手席にはその男の妻らしき女性が座っている。そして、その後ろには二人の子供がじゃれあっている。
女性は子供の方に向かって注意をしている、「静かにしなさい」とでも言っているのだろうか。男性の方は苦笑し、タバコをくわえようとするが、それを目にした女性が口を大きくあけ叱りつける。男性は弁解の意を示すように手を上げ、頭を何度も下げる。
いつのまにか、きちんと座っていた子供達はその様子を見ながら、けらけらと笑っている。夫婦はそれを見て互いに目を配せあいにっこりと微笑んだ。男性の方が子供達に向かって声を掛けると、子供達は満面の笑みでバンザイをしている。
――外食でも連れて行ってもらえるのかな? そう茜が思っていると、車はエンジン音を発し動き出した。その車が駐車場を出るまで彼女は目で追い続けた。完全に見えなくなると、静かに笑った。あの家族のような暖かい笑みではなく、自嘲じみた笑いだった。
「何を笑っている、茜」
背筋をピンと伸ばし振り返る。そこには茜の父、高坂章正が立っていた。茜は服のすそを握ると、なんでもないと言うように首を何度も横にふった。「トイレは行かなくていいか?」今度は首を縦にふった。章正は「途中でしたくなっても知らねぇぞ?」と言ったが聞こえないふりをした。
章正は茜の手を握り、引きずるように歩き始めた。「痛い」と茜は言ったが、章正は気にも留めることもなく歩き続ける。
――その手は冬のせいかとても冷たかった。
灯火
木沢
章正と茜が行く先は神社だった。世間一般の言う初詣をするためである。と言っても、年末年始は章正の仕事が忙しかったために行けなかった。だから、ようやく仕事に一区切りしたこの日に彼はあまり乗り気ではなかった茜を無理やり連れて行くことにした。
彼は仕事一筋の人間だが、行事を怠る人間でもなかった。茜は彼のそんなところも好きではなかった。しかも、近所の神社で済ますのは体裁が悪いとわざわざ遠くのほうまで出向く始末であったのだ。
車は神社の駐車場に止まり、章正はシートベルトを外した。車についている時計は22:00と表示されている。彼は助手席で寝てしまった茜に声を掛ける。
「着いたぞ、茜。さあ早く起きるんだ」
茜は目が覚めたが、まだ寝ぼけまなこのままなのか、ボーっとしている。――その刹那、頬を強く叩かれた。
「早く起きるんだ!」
茜は俯きながらごめんなさいと謝る。章正は鼻で笑うと、運転席側のドアを開ける。茜も慌てて助手席側のドアを開ける。身を切るような寒さが肌に伝わり、茜はブルッと震えた。
神社には数点の屋台があったが、章正は目をちらりと配せる程度だった。それを分かっているから茜も特に何も言わなかった。
「そこのお嬢ちゃん。これ美味しいよ。一つ買っていかない?」
屋台にいた十代後半ぐらいの緑髪の少女が茜に声を掛けてきた。手には湯気が立ち込めている袋がある。店の看板には『大判焼き』と書いてあった。専用の機械で次々と焼かれていて、そこからは絶えず甘いアンコの匂いがふんわりと発せられていた。茜はその匂いに思わずつばをごくりと飲んだ。
「何やってんだ、茜。行くぞ」
章正は茜の腕をぐいっと引っ張る。だが、茜の足はメデューサの睨みの如く固まっていた。苛立つように再び章正は腕を引っ張る。
「あ、あの。少しでしたらサービスしますので」
緑髪の少女が申し訳なさそうにそう言うと、章正は憤慨した顔つきになる。財布から千円札を抜き出し、茜に押し付けた。
「買ってこい、私に恥を掻かすな。……いいから買って来い!」
茜はクシャクシャの千円札を持って屋台の前へと行った。緑髪の少女が茜に小声で話しかけてくる。
「お父さんと、仲良くないの?」
茜は目を逸らす。大判焼き器の音がやけに耳に響く。
「嫌なことがあったら、嫌ってはっきり言わないと。それが親子でも」
苦笑しながら、そっぽを向く茜の姿に、緑髪の少女は悲しそうな顔をする。
「それはできないの? ……あんたにとって絶対に無理なことなのね」
茜は安い三個入りの大判焼きを指した。緑髪の少女は焼きあがったばかりの大判焼きを四個袋に入れた。
「あの、三個って言ったんですけど」
「ええって、サービスサービス。はい、どうぞ」
茜は章正の方をちらりと見る。その様子を見た緑髪の少女は少しため息を付く。
「あの……な。ちょっと、これは聞き飛ばしてもいいで」
少し眉をしかめるが、無視する気はなかった。財布を弄りながら耳を傾ける。千円札は手の中にある。
「逃げてみたい、とか思わへん? 怒られたらやだとか、そんなことを考えず大人から、社会から、自分を一回切り離してみたいと思わへん?」
茜の財布の中の小銭がじゃらじゃらと音をたてる。手の嫌な汗で滲んだ千円札をそっと出す。
「……まあ、もしやってみたかったら手伝うで。絶対成功しなくても、やってみたら何かが変わるかもよ?」
緑髪の少女は茜の方に顔を近づけ、何事か話しかけてくる。ふわりとした香水の香りが茜の鼻をくすぐった。
流石に業を煮やしたのか、章正は尖った口調で茜を呼びつける。緑髪の少女は忘れてもいいで、とだけ言うと、ありがとうございましたと快活に挨拶をした。その明るさは太陽のように眩しくて、茜はこの人とは切り離したくないな、と思った。
神社には神主と思わしき人が、箒を持って掃除をしている。少し寂れている建物で人はまばらだったが、その景観は逆に茜にはどことなく神秘的な物を思わせた。章正はお賽銭箱の前まで行くと、近くに居た神主を見る。神主は視線に気づき章正の方を向いたが、その時彼は財布を弄り、紙幣を一枚取り出した。
「一万円……」
茜は、つい声に出してしまった。章正は指でピンと弾くとそれはふわりふわりと舞い、お賽銭箱の中へと消えていった。神主は下を向きながら「あまり、そういったものは……」と呟いていたが、その一瞬、目の色が変わったのを茜は見逃さなかった。章正も神主のその反応に満足したのかにやりと笑った。茜は軽くため息をつくと、両手をなるべく大きく叩いてから参ることにした。
用事が済んだ茜たちは、もと来た道を戻ることにした。ゆっくりと帰りたかった茜は歩幅をなるべく狭くしていた。その度に章正はイライラして乱暴に腕を引っ張る。そして、屋台の所まで進んだ時、茜は「あっ」と声を上げた。
「さっき買った大判焼き……神社に置いてきてしまいました」
章正はそれを聞いて「ほっとけ。あんなの」と言いかけたが、傍に緑髪の少女の姿があったのでゴホンと咳払いをして
「行って来い。早く帰ってくるんだぞ」と言った。
茜は嬉しそうに駆け出すと、緑髪の少女に軽くお辞儀をする。少女は大判焼き器を動かしながら茜にしか見えないようにVサインを送った。
茜は神社に着くと、大判焼きの入った袋を持った。飛行機の音が上空から聞こえてきたので見上げると、飛行機と一緒に小高い丘のような物が茜の視界に入った。茜は横目でちらりと見ていた神主に、丘を指しながら聞いてみた。
「あれは、何ですか?」
「ああ、頂上に祭壇があるんだ。昔、変わり者が丘の上にそれを建ててね。今では、それがこの神社のちょっとした見ものになっているんだ」
茜はふうんと頷くと、屋台の方をちらっと見た。その位置では章正の姿は見えなかったが、腕時計を見ながら苛々と待っている姿が思い浮かんで身震いする。
「あの、そこへ行っちゃ駄目ですか?」
「いや、駄目じゃないけど……。お父、さんは?」
茜は下唇を噛みもう一度「駄目ですか?」と問う。神主はふうとため息を付くと丘へと続く道を指差し「気をつけるんだよ」とだけ言った。
茜はぺこりと、お辞儀をするとそこへ向かって駆け出した。その姿を神主はどこか物悲しそうに見つめる。屋台の方へ一瞬目を移すが、章正の姿が映ったためすぐに自分の足元の落ち葉を見て、箒で掃いていく。
「茜は来ませんでしたか」
その声は子を思う親のそれではなく、悪がきを捜すような怒りに満ちたものだった。
「掃除をしていたもので……」
「ふん。まあ、何か思いつくものはないのか? ここはお前の神社だろう」
空を見上げて考えるフリをする。神主の目に丘が映っている。目を閉じ口を一文字に結ぶ。章正の方を向く。
「トイレにでも行ったんじゃないでしょうか?」
「場所は?」
「あちらです」
ここからだと丘を登ってすぐのトイレの方が近かったが、神主は躊躇うことなく茜が向かった所と反対の方を指した。章正は礼も言わず茜と強めの口調で呼びながら歩き始める。
神主は頭を掻きながら「まずいかなぁ」と呟いた。本心なのか建前なのかは自分でも分からなかった。
――静か……。
茜はそう思った。屋台で賑わっていた神社を離れると徐々に薄暗くもなり、静けさも相成って不安にさせる。
そっと手を胸に当てると心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。俯きつつ登り始め、時々後ろに章正がいそうな気がして、振り返ってしまう。そこには誰も居ない。広がるのはもう戻る道が見えない闇だけ。怖くなってきて屈んでしまい、膝に顔をうずめる。
――もう、戻りたくない。進みたくもない。
その時、コツコツと足音がして茜は顔をばっと上げる。前には少し太めのおばさんがハンカチで汗を拭きながら、訝しむように茜を見る。茜はそのおばさんよりも先の方をじっと見ている。そこにはポツンと明かりが灯っていた。茜は一目散にその明かりの方へ駆け出す。その様子を見ていたおばさんは自分には関係とないばかり急ぎ足で下りていった。
その明かりは公衆トイレを示す為のものだった。その先にも一定の距離に明かりが灯っている。電気で付くタイプの明かりらしく、そのやわらかい光に鼓動が少し静まったような気がした。
茜は光に導かれるまま歩いていった。道は変わることなく続いていき、やさしく迎え入れてくれる。走ってみたりもする。誰もいない、何も恐れていなかった。
頂上までたどりつく頃には、大分息も切れていた。だが、茜には達成感があった。茜の近くには神主の言っていた祭壇が置かれている。そして頂上の奥には道がまだあるが、紐でバリゲートされていて『立ち入り禁止』の看板も目に付いた。
止まるつもりはない、自分は逃げ出したのだ。そう茜は思い、バリゲートを潜り抜けようとした。しかし、その時今日一番であろう強風に茜は体を震わせた。いや、振るわせたのは他にも原因があった。
「トイレ……」
ぐっと歯を食いしばる。後悔した。行っておけばよかったと。茜は初めて、父の言うことが心に響いた。
トイレまでなんとか間に合い茜は一安心した。手も洗って済ませた後、外に出た所に章正が立っていた。
「一体、いつまで私を待たせているんだ! この屑が」
「あの、茜はっ」
「なんだ? 言い訳か。くだらない、お前の戯言など聞くだけでも、私にとっては無駄でしかないのが分からないのか」
「それは……」
「ふん、お前も私の娘の癖に要領も悪くて、使えないな。家族だからだぞ、こうして探してやってるのは。感謝するんだな」
茜は章正を避けるように走り出した。耳を押さえていて、全てから逃げるように。
また、頂上へと戻ったがもう何もする気にはなれなかった。どうしたって、戻らなければならない。ため息は再び吹く風によって消えていく。
「寂しいです」
口にしてみると、一層孤独感が募るような気がして、またため息をつく。
腹の虫が鳴ってくる。自分が持っていた大判焼きの袋を思い出す。一個取り出したが、冷たくなっていてみるからに美味そうには見えなかった。だが、茜は気にすることなくそれをかじり始めた。
――アンコの甘さを噛み締めながら、茜は三度目のため息をついた。
突然、罵声のようなものが聞こえて思わずそちらに顔を向ける。声の発せられた場所は頂上から降りた位置にあるようだが、それより茜の目に映ったのは、高いところから見下ろして、小さくなった夜の街。ライトアップに照らされたそこは何故か茜の目頭を熱くさせた。
――孤独への哀愁ではない別の何か。涙は結局は出てこない。でも、動くことはできる。希望とはいえない、明日には消えてしまいそうな空虚な考え。だけど――。
再び歩き始めた、一歩一歩確かめるように、だけど自信を持って。茜が進む道には灯火が照らされていた。柔らかい光は茜を励ますように包み込むように輝いている。まだ、進むことができる。その最後の光が消える時まで自分をを確かに見守っていたような気がした。
――いつか、誰かがこの灯火になれることを信じてるかのように、やがて光は消えていった。
いつの日か、必ず。