空が近い。手を伸ばせば掴めそうな雲、だが届く事は無く、俺の存在を無視して流れ続ける。試しに手を伸ばしてみる。清涼な冷風が優しく舐った。風が俺の中を吹き抜け奥底へ沁みこんでゆくイメージ。風に押されるように、ゆっくりと坂を上り始めた。
町を見下ろす高台に設けられた墓地。その中でも特に高いスペースに、彼女の墓はある。値段も高さに比例していた。金の坂を歩いている――馬鹿な想像を頭を振り払い四散させる。
やがて若干ぬるい勾配は終わり、視界は空だけになった。町を一望できるこの場所からは遠くに海が見える。橙色に染まった町並みが一枚の絵画のように綺麗に網膜に焼き付けられた。
「おかしいな、寮を出たときはまだ昼過ぎだったのに……」
思案を巡らす。何にこんなに時間を使ってしまったのか。分からなかった。ぼんやりと飯を長いこと食べたような気もするし、歩くのが牛のように遅かったのかもしれない。
墓にやっと辿り着く。彼女の墓石は光沢を放っており、他の墓石とは一線を画している。
「まぁ、作ったのが最近だから当たり前かな」
一人呟く。墓石はひっそりと佇むだけだった。
買ってきた花を備える――そういえばこの花を買うのにやたらと時間を使っていた気もする。
墓石に水をかける――こんな寒い日に水をかけるな、アホ。彼女の声が聞こえた気がした。
そして俺はそっと墓石の淵を指でなぞった。冷たい感覚が指を差す。そこに一切の生の温もりは無く、この石ころが彼女の分身などではなくただの置物である事を如実に物語っていた。
「そりゃそうだよな。こんな石が家じゃやってらんないぜ。まだ寮のほうがマシだ」
彼女は俺の心にいる。目の前にあるのは、社交辞令というやつだろう。
いないと分かっているものの、そっと声をかけてみる。墓に刻んだその名前を、呟く。
「遅くなって悪かった……鈴霞」
墓石が表情を変えた気がした――あるはずの無いこと。それでも少し嬉しくなって、俺は微笑んだ。
悲恋歌
Wanderer
知らせが来たのは唐突だった。
試合が終わり疲れきっていた体をベッドに横たえると、眠気はすぐにやってきた。
電気も消さずに眠ってしまった俺が体を揺すられて起きたとき、目の前にはいるはずの無い凡田君の顔がアップで映し出されていた。眠気は一瞬にして吹き飛ぶ。
「な、なんで凡田君がここに!?」
「そりゃ五月君が戸締りもしないで寝るからでやんすよ。無用心でやんすよ〜?」
「疲れてたんだよ。それで凡田君、まさか鍵が開いてたから俺を起こしに来たわけじゃないだろ?」
そう言うと凡田君は思い出したように顔色を変えた。眉間に皺が寄り、難しそうな顔をした。
「それがでやんすね……警察から電話があったんでやんすよ」
警察。聞きなれないワードが俺らには不似合いだと思った。思ったことを率直に述べる。
「なんだよ。グッズの買い過ぎでつい出来心でーってヤツ?」
「どういうシチュエーションでやんすか? それに、呼ばれているのはオイラじゃ無くてアンタでやんす」
指を俺に向ける。全く身に覚えが無い呼び出しに、俺は呆然と凡田君を見ることしか出来なかった。
「俺……?」
「何か悪いことしたんでやんすか〜? 最近は五月君も大人しくなったのに、オイラがっかりでやんす〜」
「いや、人聞きの悪い事を言うなよ。俺は何もしてないって」
「とにかく、電話がまだ繋がってるでやんす。早く行ったほうがいいでやんすよ?」
「そういうことは早く言えっての」
俺は留守を凡田君に任せ、外套を引っさげて部屋を出る。寮内なのに寒い風が廊下に吹き抜けていた。
モグラーズの電話は共用だ。寮長の部屋までの短い距離を全力で走る。冷たい風が身を切るように襲う、改めて球団のケチさ加減に舌をうった。
古沢さんに取り次いでもらった電話を受け取る。受話器から野太い男の声が聞こえた。
「もしもし、五月和雄さんかい? 俺は警察の赤井ってもんじゃが」
「はぁ。それで警察が俺に何の用です?」
ただでさえ今日は、練習試合とは言え先発登板の完投試合で疲れが溜まっている。叩き起こされた恨みを込めてぶっきらぼうに返事をした。赤井は俺の不機嫌な声を気に留めずに話した。
「ああ、ちょっとばかし見てもらいたいものがあるんじゃ。一般人には刺激がキツイかもしれんがの」
「何ですかそりゃ。死体でも見せる気ですか?」
受話器の向こうで、赤井が息を飲む声が聞こえた。冗談で言ったつもりだった。
「……冗談、ですよね?」
「だとよかったんだがな。とにかく、今すぐこっちに足を運んでもらえないかの?」
「ちょっと待ってください。どうして俺なんです? 一体誰が亡くなったんです?」
矢継ぎ早に尋ねる。意味も無く焦る。古沢さんが怪訝な目で俺を見ていた。
赤井が少しばかり唸った後、暗い声で答えた。
「分からないことだらけなんじゃ。ただ、仏様の懐にアンタの写真が入っていた。それだけじゃ」
「俺だってプロ選手だ。ただ熱狂的なファンが写真を持っていた可能性だってある」
「アンタとのツーショットだったら、どうじゃ?」
頭に雷光が走る。ツーショットを取る女性、二人だけピックアップされた。白木恵理と埼川珠子。恵理なら体が変わる前の俺が撮っていた可能性があるし、タマちゃんなら俺が嫌がるタマちゃんを宥めつつ撮った記憶がある。汗が一筋、額から垂れた。
俺は受話器を乱暴に電話機に叩きつけた。古沢さんに礼を一言だけ述べると、呼び止める声も聞かずに外へ飛び出した。門限まであと三十分、気にする余裕は無かった。凍える外気を切り、遮二無二警察を目指し足を動かした。信号を無視し、何度も人にぶつかりながらも走った。眠気、疲れ、どこかへ吹き飛んでいた。
警察では赤井が俺を待っていた。社交辞令である陳情を無視し、早く相手を見せろと掴みかかった。周りの警察官が俺を押さえつける。自分でも信じられないほど気が立っていた。
「分かった。行こう、五月さん」
死体安置室へ向かう。どちらも無言だった。恐らく赤井も今何を聞いても無駄だと理解しているのだろう。だがその沈黙が逆に俺の焦燥をさらに駆り立てた。
重い銀の扉。中は薄らとした明かりが唯一の照明となっていた。ホルマリンの臭いが鼻につく。誰でも思う、長くはいたくない場所。人間の住む世界と一線を画した場。その中央に彼女は眠っている。
白い布に覆われた体。出来る事ならば今すぐここから抜け出してしまいたかった。焦りばかりが募る。見たくない、だが見なければいけないというジレンマ。決心し、顔の布をそっと、捲る。
眠っていたのは、姿の変わった俺と知らず話しかけてきた健気な女では無く。
毒舌が印象的だった、気さくな占い師だった。
世界が、歪む。
叫び声が遠くに聞こえた。赤井の声がはっきりと聞こえた。大丈夫か、どうしたんだ一体。俺は差し出された手を乱暴に弾き、天に向けて咆哮した。嘘だと思い込みたかった。悲しいほどに目は冴えきっていた。
叫んで、声がかれて、それでもまだ感情の波が収まらなくて――やっと涙が零れた。
それから先は、思い出すのも嫌になるほど荒んでいた。
一晩中泣きつくしていた俺を赤井が取調べ所に連れて行った。俺を犯人と疑う質問、俺は激昂した。赤井を力の限り殴った。調査だからと宥める書記官、タマちゃんが死んだのに笑顔を繕っていた。その顔を壊したくて、気が付けば拳が鼻柱を叩き折っていた。俺は乱入してきた警察官たちに拘束され、公務執行妨害の罪状を述べられ牢屋にぶち込まれた。
殺風景な部屋、暴れる俺には丁度いい場所だった。配給される飯もろくに食べずに、ここでも俺は泣きつくした。様子を見に面会してくる凡田君や他のチームメイトとも会話らしい会話をしなかった。日に日に衰弱してゆく俺の体を心配する凡田君の声が聞こえたが、そのまま耳を通り抜けていった。
牢に入れられて五日、俺は釈放された。タマちゃんの死亡推定時刻、俺は試合の真っ只中だった。観客がみんな捉えているマウンド上のピッチャーが人殺しをできるはずが無かった。公務執行妨害は精神に問題があったとして不問とされた。警察署からふらふら歩き出す俺の背に赤井から謝罪の言葉が投げかけられた。本当に言うべきなのは、俺なのに。返事を返すことも出来なかった。
寮で俺を向かえるチームメイトたち。元気付けようと明るく話しかけてくるのが妙に癪に障った。俺は拳を握り締め、振り上げて、そこで硬直した。理性が何とか押し留めた拳で自分の頬を殴った。鉄の味が口の中に広がる。無理矢理笑顔を作ってもう大丈夫、という旨を伝えたかった。頬の筋肉が上手く動かず自分のもので無いように思えた。笑顔を作れたかどうかさえ分からなかった。
空虚の中で時間だけが流れてゆく。俺は練習に打ち込んで忘れられるほど頭が良くなかったし淡白でも無かった。夜毎にタマちゃんを思い出し、泣き出すか暴れるか。仲間は遠巻きに心配していたが、徐々にその距離も開いていった。一人で丁度いい。誰かが同情の声を寄せてきたら殴りつけてしまいそうだったから。
やがて冬が終わり春が来た。俺の調子は相変わらずだったが、以前よりも球がキレるようになっていた。それがタマちゃんと会わなくなった代償と考えると無性に腹立たしかった。俺にとっての野球の価値は下降線を辿っている。球を投げるたび、変化球コーチという胡散臭い肩書きを持ったコーチを思い出す。ふとベンチを見る。飄々とした風貌で試合を見ていたコーチはもういない。試合後に、今日の球のキレは中々だったぞ、と褒めるコーチはもういない。野球をすることが苦痛になり始めていた。
それでも監督はそんなことは知らずに俺を開幕投手に選んだ。能面でマウンドに上がり、観客席をぐるりと見回した。いるはずの無い人を探す。観客がサービスと勘違いしたのか沸いた。その歓声が、俺の耳に届く事は無い。無心で腕を揮う。野球まで無くしてしまったら俺には何も残らない。その野球を失おうとしている思考を遮断するために、ただ目の前の打者を打ち取ることだけを考えた。
次の日の新聞――開幕試合からノーヒットノーランを達成した俺を褒め称えていた。オフの練習の賜物、と他の選手に発奮を促していた。監督が俺を褒めちぎった。全ては空虚だった。コーチがいなくなって、タマちゃんがいなくなって発揮された実力。もう耐えられなかった。俺は新聞を裂き、監督を殴った。謹慎処分、新聞はすぐにそれを報道した。オフ中の逮捕も暴露される。いいんだ、この扱いで。頭より先に体が動く。心のどこかで、野球から距離を置く事を望んでいた。
シーズンが終わりに近付いたある日、俺は一軍に呼び戻された。
プレーオフへの切符を賭けた争いへ登板することになった。試合は三日後。監督は強張った表情をしながら俺の背を叩き、俺に全てを任せる旨を伝えた。
一軍の練習に合流する。チームメイトの視線、期待と恐怖が入り混じっている。体が入れ替わった時と何も変化が無くなってきていた。唯一の違い、絶対的な力。それすらも手放そうという決心も、ついた。
要は流されていたのだ。時間が解決してくれると、心のどこかで甘えていた。野球と別れることは自然にはできない。この体に、脳に、野球の全てが染み付いている。だったら自分から手放してやればいい。この試合、全国が注目する試合で何かやらかしてしまえば。俺は球界を追い出され強制的に野球から離れる事になる。思い残す事は、何も無かった。
何をしでかせばいいのか、それだけを考えていた。可能な限り惨めに退いて、後腐れの無いようにしなくてはいけない。試合前日まで考えはまとまらなかった。
思考に疲れ、ベッドに身を横たえる。あの日と同じように、意識が混沌としていく。考えるのは明日でいい、試合が始まるまで時間はあるんだ――そう言い聞かせる。
そして俺は、タマちゃんと再会した。
「久し振りだな。前より、男前になったな」
「タマちゃんだって……前より美人になったよ」
震える声。彼女の前で泣きたくは無かった。意志とは関係なく、頬に熱いものが伝う。
「それはありがとう。ちなみに私のは冗談だ」
「そうか、残念。でも俺のは冗談じゃないぜ」
「ふん、社交辞令として受け取っておこう――本当に久しいな、五月」
何かが、決壊した。目の前のタマちゃんを全力で抱きしめる。華奢な体が一瞬強張り、すぐに俺を受け入れた。だがその体躯に、人間の温もりはなかった。
タマちゃんの口から、嘲笑が漏れる。
「冷たいだろう? 私は死者だからな、当たり前だ」
「やめてくれよタマちゃん……俺はそんなこと、聞きたくない。夢の中でくらい夢のあることを言ってくれよ。俺にひとときの夢を見せてくれ」
子供のように甘えた声が出る。せめて夢の中でくらい、幸せなときを思い出していたかった。
腕の中から、タマちゃんのおどける声が聞こえた。
「弱々しい声だな、五月。女一人失うくらいで情けないぞ。私の知っている五月はもっと強い男だと思っていたが。見当違いか、それとも人違いか?」
「そうだよ、俺は弱い男だ。タマちゃんがいなくなった穴が大きすぎて埋められないヘタレさ。だから俺はいっそ心を大きな洞穴にすると決めたんだ。野球と共に、君との思い出は捨てる」
「何? もう一遍、言ってみろ」
タマちゃんの声色が変わる。聞く者を凍らせるほど冷たい声。
だが、俺だって苦渋の思いだった。これまでの道を振り返り、この決断が間違っているとは思えなかった。
「俺は野球を止める。野球が苦痛になってきたんだ。続けたくない、そう思うようになった」
「本気で言っているのか?」
「本気さ。明日の試合で何かとんでもない事をやらかして球界を去る。決心したんだ」
「――この、馬鹿者がっ!」
一瞬の、空白。そして腕の中から、タマちゃんの拳が俺の顎を打ち抜いた。
女性とは思えぬ力で俺の体は宙に浮き、地に倒れた。脳が、世界が揺れる。
視界の隅で、タマちゃんが冷徹な目で俺を見下ろしていた。
「お前は本物の腑抜けか、それとも別人かのどちらかだ! どちらでもいい、今すぐ私の前から去れ!」
「どうして、そんなことを言うんだよ……俺が悩み抜いた結論は、受け入れられないのか」
「当たり前だ。どうしてそんな馬鹿なことを考える? 理解し難いぞ」
「馬鹿なこと、か。なぁタマちゃん、俺にとってはちっとも馬鹿じゃないことなんだ。俺にとってタマちゃんは希望であり憧れだった。本人には分からないかもしれないけどね」
タマちゃんの表情が揺らぐ。タマちゃんが俺に抱いている感情と同じものを俺はタマちゃんに向けていた。
「そのタマちゃんがもういない。世間はそんなことをお構い無しに俺の活躍を一同に賞賛する。その力が大きすぎる代償の果てに手に入れたものだとも知らず、俺が望んだ物でないとも知らず!」
「違う、代償などではない! それはお前の才能だ、五月!」
俺は微笑んだ。タマちゃんならきっとそう言うだろうと理解していた。
「ありがとう。でも――もう俺にとって野球は、君との思い出を穿り返すものでしかないから」
「そんな……私に、野球が好きだといってくれた男は――いないのか?」
「死んださ、君と共に」
タマちゃんの双眸の光は弱々しくなっていた。視線は助けを求めるように宙を彷徨っている。いつもの彼女からは想像もできないほど狼狽している。その姿を見て、心がずきりと痛んだ。
「私との日々は、悪夢でしか無くなってしまったのか?」
「それは――」
違う。そう声に出す前に、タマちゃんが矢継ぎ早に続けていた。
タマちゃんは俺に背を向け、悔いるように声を搾り出した。肩が微弱に震えていた。
「私が、お前を苦しめている諸悪の根源なのか。私は五月にとって、羽ばたくことを阻止する鎖でしかなくなってしまったのか?」
「止めてくれ、タマちゃん!」
後ろから、強く抱きしめる。腕に温かい粒が垂れた。
「違うんだ、タマちゃんが悪いんじゃない……全ては俺の弱い心がいけないんだ。事実から目を背けて逃げた俺が悪いんだ。だからそうやって、自分を蔑むことだけはしないでくれ……」
「だが私の思い出を捨てるというのなら、やはりそれは悪夢でしかないではないか!」
「違う!」
「だったら、どうしてだと言うんだ!?」
タマちゃんらしくない激情。あっさりしていた別れの反動に思えた。
俺は息を吸い、自分の感情を残らず吐いた。腕の中のタマちゃんをさらに強く抱き寄せる。
「寂しいんだよ、俺は! タマちゃんが生きていた頃は、どこかで俺を見ているから、と自分に言い聞かせて奮起したさ。でも、もうこの世の何処にもタマちゃんがいないと分かって――俺の心は壊れたんだ。タマちゃんとの日々が懐かしくて、輝かしかったから、今の自分が余計に惨めに見えた。だから俺はいっそ全てを忘れれば楽になると考えた。それだけだよ。思い出は今でも幸せな夢として残っている」
「……本当か?」
「ああ――野球だって続けたいさ。日常のいたるところにタマちゃんとの思い出は眠ってる。野球もその一つだ。幸せな記憶が蘇るんだ、野球をしていると。ただ今まではそれを逃避していただけさ。
それに、俺は野球が好きだから、ね」
「信じて、いいんだな?」
「信じて欲しい。お願いだ」
「だったら――証拠を見せてくれ」
タマちゃんの涙交じりの声。俺は腕の拘束を緩めると、タマちゃんの肩を抱き顔を近付けた。触れ合う唇。温もりは無かったが、微かに涙の味がした。やがてどちらとは無しに顔を離す。
タマちゃんは頬を朱に染め、そっと唇を指でなぞった。そしてすぐに照れたのか顔を真っ赤にした。
「違う、私が言っているのはそういうことではない!」
「ははは、分かってるさ。でも生きている時は滅多にさせてくれなかっただろ?」
「ぅ、む。そりゃそうだが……そんなことよりも、五月。元の顔付きに戻ったみたいだな」
「ああ、タマちゃんに会って吹っ切れたよ。もっと早く会いたかった」
タマちゃんの表情が儚く歪んだ。これは夢。出会ってもすぐに別れる定め。
だからこそ俺は気丈に振舞って見せた。もう一度タマちゃんに唇を近づけ、重ねた。タマちゃんの驚く表情が間近に映る。やがて大きく開かれた目を閉じ、手を俺の首に絡めた。長い長いキス、永遠を望んだ。
唇が離れる。銀の糸が引く。タマちゃんはバツの悪そうな顔でそっぽを向いている。
「強引というより、積極的だな?」
「嫌だった?」
「……そんなわけ、あるか。馬鹿者」
俺と視線を絡めないまま、タマちゃんが小声で言った。俺は久々に心から笑っていた。
段々と、景色が薄くなってゆく。覚醒の時間が近付く。タマちゃんの姿が空虚へと帰ってゆく。
「時間の、ようだな。さらばだ五月。今度こそ、もう会うこともあるまい」
「うん…… 次に会うときは、俺が死んだときかな」
なんてことは無い冗談。ふとすれば零れそうになる涙を堪える方法が思いつかなかった。
「何だ、別れだというのに冴えない表情だな。まさかまた愚図を言う気じゃないだろうな?」
「言わないよ。だって、タマちゃんが、傍にいるんだろ? これから、ずっと」
「――ああ、そうだな。これからずっと……お前を見守り続けよう。だからお前は笑っていろ、お前に泣いている表情は似合わない。ずっと、私を惹き付けた笑顔でいてくれ」
タマちゃんも泣いていた。涙の所為で、薄くなるタマちゃんの姿がさらにぼやける。
「ああ、努力する…… タマちゃんが見ているなら、ちっとも……寂しく、ないよ」
「そう、だな……」
「俺の、活躍、見ててくれよ?」
「見てるさ……」
「大活躍、だからさ?」
「あぁ……」
「約束、だよ……」
「 ぁ……」
「じゃあ、タマちゃん……さようなら……」
返事は返ってこなかった。辺りははじめから何も無かったかのように静寂だけが残った。
俺の意識も薄れてゆく。現実へと呼び戻される。未練は何も無い、タマちゃんの姿はしっかりとこの目に焼き付けてある。そして、約束も交わした。
消える直前、タマちゃんが見せた笑顔は今まで見たことも無いような素敵な笑顔だった。
目覚めはいつかと同じだった。
凡田君の声、俺の体を揺すっている。目を開けると薄汚れた天井をバックに凡田君の顔がアップで映し出された。ゆっくりと身を起こし、寝ぼけ眼を擦る。
「すっげー、デジャヴ。凡田君、登場方法変えたら?」
「何言ってるんでやんすか……もうお昼でやんすよ? 監督が収集をかけてるでやんす!」
「マジかよ、俺は寝起きだぜ。飯くらい食わせてからにしてくれ」
「ダメでやんすよ、もうみんな待ちくたびれてるでやんす!」
仕方ないな、と舌打ちしベッドから飛び降りる。体を軽く解す、いつになく絶好調だった。
その様子をじっと見ていた凡田君は、軽く笑って安堵の声を漏らした。
「吹っ切れたでやんすね?」
「ああ。うじうじすんなって言われたんだ、夢でな。約束もしたんだ、野球頑張るってな」
「じゃあ今日の試合は――」
「当然、完封勝利ってとこだな」
凡田君が言う前に言ってやった。俺と凡田君は弾かれたように笑った。腹の底から笑いが込み上げてきた。
「無理しないでいいでやんすよー? オイラがきっちり抑えてやるでやんす」
「残念だけど凡田君の今日の出番は無いよ。俺が絶好調だからね」
頼もしそうな目で俺を見ていた凡田君は、思い出したようにぽんと手をうった。
「あ、早く行ったほうがいいでやんすよ! 飯は後で食うでやんす」
「分かったよ。全く、監督のありがたい話じゃ腹は膨れないってのに」
減らず口を叩く、元の俺に戻った証拠かもしれない。
俺はユニフォームに袖を通し、みんなの待っているミーティングルームに駆けた。
それから墓を買って、警察に行きタマちゃんを引き取った。身内のいない彼女は無縁仏として公共墓地に埋葬されていた。敬遠するだろうと思っていた赤井は顔を綻ばせて迎えてくれた。いい刑事だ、と思った。
今年は活躍していないから、年棒も厳しいかもしれないな――そんな考えを一瞬で打ち消し、俺は高台の町が一望できるえらく高額な墓を買った。いつかのデートで、この町の夜景が綺麗だ、と言ったのを思い出していた。
墓石に彫る名前は、生前の彼女の望みを聞き入れる事にした。鈴霞として彼女と接した時間は無い。だが綺麗な響きを持つその言葉は彼女にぴったりだと思った。
――そして今、俺は墓の前に立っている。悲しみも怒りも、全ての感情を乗り越え俺はここにいる。
できたばかりの墓石、大理石が夕焼けを受けて眩い光沢を放っている。こここそがタマちゃんの安息の地であり、ゆくゆくは俺と二人の場所となる。やたらと広いスペースは二人分だった。今のタマちゃんは俺と共にある、だがいつか、俺が自分の人生を全うした時、俺はタマちゃんと共にここで眠る。
「だからそれまでは……ここに来るのはやっぱり、社交辞令だな」
俺は墓石に話しかける。あれからあった試合のこと、チームメイトとのわだかまりもすっかり解けまたエースとして復活していること。今季は惜しくも優勝を逃してしまったこと。話すことは湧き出る湯水のように尽きることは無かった。
日が落ち辺りが暗くなって、やっと俺は話すのを止めた。そもそもタマちゃんは俺をずっと見守っているはずなのだ、わざわざ話さなくても知っているだろう。
それでも俺は多分、明日もここに来るのだろう。明後日も、これから先もずっと。タマちゃんは練習しろと言って怒るだろうか。その様子を想像したらなんとなく笑えた。
「まあ、こうして墓と話すのも社交辞令だからさ。許してくれよ」
立ち上がる。辺りは暗くなっていて足元もよく見えない。火でもあれば、と思い俺はやっとタマちゃんに線香をあげていない事を思い出した。慌てて振り返る、鮮やかな花だけが墓を飾っている。
線香なんて、煙たいだけじゃないか――タマちゃんの声。そうだよな、と俺は踵を返した。
坂を下ってゆく。星が空に瞬いていた。ふと、横を向いてみる。人々の生活の営み、家の明かりがあちらこちらで灯っている。ネオンのように輝くそれらは暗闇とのコントラストでとても美しかった。
「なるほど、確かにここの夜景は綺麗だな」
受け入れたはずの彼女の死、今更になって涙が出てきた。みっともなく涙を流しながら夜道に佇む。
暗闇が俺の心に溶け込んでいるように思えた。悲しみと惨めさを仕舞いこんだ箱を開けようとしている。
強がっていられるのは、ここまでだった。墓の前で泣き出さなかったのが不思議だった。
「タマちゃん――やっぱり俺、ずっと笑っているってのは無理だよ。タマちゃんがいなくなって、やっぱり寂しいし悲しい。今だって人の目を気にせず泣きたいくらいだ。でも、そのくらいは許してくれよ? それほど君が魅力的だったんだ。野球、頑張るからさ……頼むよ、許してくれ……」
俺は声を上げて泣き出した。声が反響し、木々のざわめきと風の吹きぬける音と重なる。
これは悲恋の詩。報われない恋の悲しい結末。俺は一生これを抱きながら生きてゆく宿命にある。
夜風に背を押されるように、俺は泣きながら歩き出した。
悲恋歌が響き、風に乗って空虚へと運ばれる。あとには何も残らなかった。
了