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春風

100のお題「003:日常」

ほうろう+






















 全国各地に春の便りが届いております――どこかで聞いた、喜びを含んだアナウンサーの声が、ふと脳裏に蘇った。たしかに、キャンパス内には桜が鮮やかに咲き誇っている通りもあった。行き帰りに通る街並みも、何かにつけては春の到来をアピールしていた。だが、今見ているこの庭はどうか。いつ見ても定規で測ったかのように綺麗に刈り揃えられた芝生が広がる庭。外界と家とを隔てる塀が、今日はいつもより一段と高く映った。
「お嬢様、紅茶が入りましたぞ」
 聞き慣れた穏やかな声色に、窓の外から視線を離す。いつものように、テーブルの上に白いカップを置きながら、城田が微笑みかけてくる。
「何か、外にありましたかな?」
「いえ……そういうわけじゃないのだけれど」
 曖昧に返事を濁す冬子だったが、城田は特に追求することもなく、美しく透き通った琥珀色をポットからカップへと注いでゆく。冬子はどこかつまらなそうな面持ちで、その様子をぼんやりと眺めていた。
 ふと、廊下の方から足音が聞こえた。程なくして、フォーマルスーツに身を包んだ晴継が忙しない様子でダイニングに顔を出す。冬子は一瞬眉をぴくりと動かすと、何事も無かったかのように澄ました挨拶の言葉を口にした。
「おはようございます、お兄様」
「ああ、おはよう。冬子――見ての通り、オレは急いでいる。できれば手短に済ませたい。オレの言いたいことは、分かるな?」
 答えず、窓の外へと視線を向ける冬子。晴継はふぅと小さくため息をつくと、落ち着いたままの口調で続けた。
「来週の縁談のことだ」
 ひたすら、黙し続ける。
「オレは今日から出張で同席はできない。目付けは牧村に頼んであるが――また、逃げたりはするなよ」
 晴継の言葉に力が篭もる。見合い話に冬子が興味を示さないことは、これまでの経験から彼も十分に理解していた。だが、親代わりの身としては、早く妹には安定した家庭というものを持って幸せになってもらいたかった。その為には、冬子がそれを嫌がっていようと、無理にでも縁談を用意するべきだと、晴継は考えていた――ただでさえ、冬子は世間というものに疎いのだから。
 冬子は無言を貫くばかりだった。外を眺める瞳の中に、はっきりと拒絶の意思を見た晴継は、再度聞こえよがしにため息をつくと、腕時計をちらりと見、来たときと同じように足早にダイニングを後にした。牧村がそれに続き、城田と冬子だけが残される。金髪の少女は、遠ざかってゆく足音が完全に聞こえなくなってからようやく、肺の中の空気を全て吐き出すかのような大きな吐息をついた。
 ――本当は、耳を塞いでしまいたかった。
 晴継の過保護気味な思考くらい、冬子は重々理解している。だが、それとこれとでは話が違うのだ。
 兄の用意する縁談相手は様々なものを持っていた。財力、権威、人望――世間的な目で見れば、これ以上ないほど恵まれた人物。しかし冬子には、どうしても彼らを魅力的だとは思えなかった。それはきっと、晴継の計画通りにはまってしまうのを無意識の内に拒否していたからだろう。
 窓の外も内も変わらない。ただ同じようなことが繰り返され、終わってゆく日常――嫌だった。抜け出したかった。だが、誰かの敷いたレールに沿うのもまた嫌だった。
 待っていたのだ、心がときめく何かが始まる瞬間を。幼い頃に読んだ、シンデレラの童話のような、運命的な出会いを。
「お嬢様。紅茶が冷めてしまいますぞ」
 ずっと黙ったままの冬子を見かねたのか、城田が不安げに声をかける。
「ああ――ごめんなさい。いま、いただくわ」
 カップの取っ手に細い指を通し、口元まで持ってゆく。板についた優雅な動作で紅茶を口に含んだ冬子は、そのいつもと違う香気と味わいに、少しばかり大きく目を見開いた。
「城田、これは?」
「ダージリンのファースト・フラッシュですな。それも、つい最近、摘まれたばかりのものですぞ」
「そう……すごく爽やかで、香りもいいわね」
 もう一度、今度は舌で転がしながら、紅茶の味わいを楽しむ。城田、さも嬉しそうに巨体を揺らした。
「新しい、季節ですからな」
「ええ……そうね」
 冬子の声色が弱まる。城田は目をゆるやかな弧状にすると、手の平を上に向け窓の外を示した。
「きっと、お嬢様にとっての新しい季節も、すぐそこまで来ておりますぞ」
 きょとんとした様子で、示された庭を見つめる。そして、冬子はふっと微笑み目を細めた。
「――ありがとう、城田」
 春を告げる風の中を、どこからか舞い込んできた桜の花びらが踊っていた。























 一人きりの登校。閑散とした住宅街を、新しい季節の到来を感じながら、ゆっくりと歩いてゆく。普段と同じ道だというのに、いつもより世界はどこか明るく、遠くから響く鳥のさえずりは大きく活力に満ちたものに聞こえた。暖かな空気に背をうんと伸ばすと、落ちてきそうなほど青く澄んだ空が果てしなく広がっていた。
 ふと、視線を空から戻すと、このあたりでは見覚えのない長身の男が、物珍しげに周囲を見回しながら歩いていた。冬物の黒いロングコートと、しまりなく胸元を開いたワイシャツ、ボサボサの黒髪。金髪の少女の眉を顰めさせるにはそれだけでも十分だったが、不自然に曲がった帽子のツバが、特に冬子の目を引いた。
「――そこのあなた、お待ちなさい」
 発せられた、冬子の声。
 それを乗せ、送り届けるかのように、二人の間に一陣の春風が吹いた。