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雪白家のバレンタイン

晴継は義兄

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ずっと気を張っていたせいか、疲れた――フカフカのソファに倒れるように腰掛ける。全身を包み込むような弾力が、自然とわたしの口から吐息を漏らさせた。

 

「慣れないものね、何度やっても」

「――そうですかな? 初めてのときより、だいぶ落ち着いているように見えましたが」

 

 ゆらゆらと湯気の立つ紅茶のカップをテーブルに置きながら、城田が顔を綻ばせる。初めてのとき――彼に初めて手作りのチョコレートを渡そうと思い立ったとき。当時の慌てぶりが思い出され、かぁっと頬が熱くなる。身を起こしカップに手を伸ばすと、嬉しそうな笑みを崩さない城田に恨めしげな視線を向けた。

 

「あのときと比べないでちょうだい」

「今でもはっきりと思い出せますぞ。あのときのお嬢様のはしゃぎ方は、なかなか――」

「もう、城田!」

 

 カップに口をつけ、恐らく真っ赤になっているであろう顔を隠すため俯く。覆いかぶさった髪の向こうに見えた城田は、咎められたというのにちっとも悪びれた様子はなく、むしろますます機嫌が良くなったようにも見えた。

 わたし、手作りのチョコレートをあげてみたいわ――あのときのわたしの言葉。別れたはずの彼との再会、その興奮の冷めやらぬうちにやってきたバレンタイン。居ても立ってもいられなくなって、わたしは城田にチョコの作り方を教えてくれと懇願した。作っている最中も頭の中を占拠しているのは彼のことばかり。少しでも形が崩れればわたわたと年甲斐も無く慌てふためき、思い通りの味にならなければ目の端に涙が滲んだ。落ち着いた今から振り返れば、恥ずかしいことこの上無いエピソード。城田が笑うのも無理はないと、わたしも思う。

 ただ、悪戦苦闘の甲斐あってか、彼はとても嬉しそうにわたしのチョコを食べてくれた。今でも鮮明に思い出すことができる、彼が「おいしい」と言ってくれたときの、心の底からの安堵感と天にも舞い上がるような喜び。全てひっくるめて、わたしの大切なエピソードだった。

 

「今年も、お嬢様がキャンプ地まで行かれるのですかな?」

「ええ、もちろん。明日、飛行機に乗って行くわ」

 

 それ以来、毎年わたしは手作りのチョコレートを持参して彼の宿泊地にお邪魔している。牧村に任せないのは、もちろん彼の反応を間近に感じたいからだ――もっとも、春季キャンプとやらの影響で一ヶ月も会えないのが耐えられないから、という理由もあるが。

 城田はわたしの顔を見ながら、しわの目立ってきた顔をさらにしわくちゃにして微笑んだ。

 

「お嬢様のチョコなら、きっととても喜んでもらえるのでしょうな」

「――ああ、オレならきっとその場で小躍りするだろうな」

「おおお、お兄様っ!?」

 

 背後から聞こえた、内容の割には重く暗い口調の呟き。慌てて振り向くと、お兄様が幽鬼のような表情で立ち尽くしわたしを見下ろしていた。

 

「い、いつからいたんですか」

「ずっとだ。ソファの後ろに隠れていれば、冬子の秘密が一つや二つくらい聞けるかもしれないと思ったからな……」

 

 どうやらお兄様はかなり暇を持て余しているらしい。

 

「それはさておき、冬子。今日が何の日か、お前は覚えているかい?」

「え? 今日――ですか?」

 

 今日、二月十三日。わたしの記憶する限りでは、特に重要な出来事はなかったと思う。城田に目で問いかけるも、やはり心当たりがないのか首を横に振られた。さっぱり分からずきょとんとした表情を向けると、お兄様は腕組みをしながらふふふ、と低く喉を鳴らした。

 

「その表情、額縁に入れて飾っておきたいな」

 

 どうやらお兄様はこれからも暇らしい。

 

「分からないなら教えてあげよう。今日は二月十三日――『にいさん』の日だ」

 

 誇らしげに、ニヒルな笑みを浮かべる。コメカミが小さく疼くのを感じた。

 

「ただの語呂合わせじゃないですか……」

「フッ、こうでもしないと冬子はオレを相手にしてくれないからな」

「……お兄様が何を仰りたいのか、さっぱり分かりませんわ」

「分からないだと!?」

「ひっ」

 

 目をカッと見開いたお兄様が声を荒げる。いつもの澄ました態度はどこにいったのか――わたしは少しだけ恐怖を感じた。

 

「最近、何かあればアイツの話ばかり。お前のアイツに対する好感度は上がる一方だが、オレに対する好感度は下がりっぱなしだ。好感度が下がれば必然的にオレとのコミュニケーションも減り、さらに好感度は下がる。決して上昇しない好感度のデフレスパイラルだ! おかしいだろう冬子。大昔から家父長制を採用してきた日本人の血が流れているならお前だって分かるはずだ、兄をもっと敬うべきだと。最低だわ……なんて言ってはいけないんだよ! まあ、オレとしては冬子になじられるのもそれはそれでまた一つの快感ではあるのだが、そればかりだとただのイジメになってしまうだろ。だからこそ、今日という日くらい全身全霊で兄を大事にしてみるのはどうだ。まず手始めに、呼称はお兄様から『おにいちゃぁん……』に変更してみるのはどうだ。少し甘えるような鼻にかかる声を出すのがコツで」

「――それじゃ城田、明日は早いからわたしはもう寝るわ。おやすみなさい」

「え? お、お嬢様!」

 

 演説に夢中になっているお兄様にばれぬよう、そっとリビングから退散する。近々、お兄様は病院に連れて行ったほうがいいかもしれない――溜息が漏れた。悪い兄ではないのだ。ただ、わたしのこととなると少し熱くなることを除けば。

 確かにお兄様の指摘通り、わたしの彼への思いは強くなるばかりだ。だがだからといって、お兄様のことが嫌いになったわけではない。わたしにとって、一人しかいない大切な兄なのだから。

 ――チョコをもらえたらきっと小躍りする、のね。

 お兄様の言葉を心の中で反芻する。同時に、冷蔵庫で冷やしている彼へのチョコレートの隣にある、それより幾分か小さめのチョコが脳裏に浮かび上がった。

 

「お兄様のダンス、楽しみにしてますわ」

 

 未だに演説の続くリビングを振り返ると、わたしは小さく微笑んだ。