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 打球の詰まる鈍い音が響く。ふらふらと力無く舞い上がる白球、八雲陽は周囲に声をかけながら落下地点に入ると、危なげなく小フライをキャッチした。ホッパーズの勝ちが決定したその瞬間、観客がわあっと沸く――といっても、観客数は高が知れた程度しかおらず、その歓声は微々たるものだった。ホームゲームの試合に勝ったというのに、ちっともムードが伴わない。この有様では、せっかくの勝利もその喜びが半減してしまうというものだ。陽は小さく溜息を吐くと、監督やコーチの労いの言葉に適当に返事を返しつつ足早にベンチを後にした。
 試合後のロッカールーム、なかなか味わえない勝利で騒がしくなっていた。誰も彼もが自分達の些細な活躍を語り合っては笑い、誇り、酔っていた。そんなチームメイト達を尻目に、陽は一人そそくさと鼻歌交じりに着替えを済ませてゆく。
 身支度を終えロッカーを閉める。ちょうどその時、ヒーローインタビューを受けていた湯田が戻ってきた。
「よお、お帰り。完投勝利お疲れさん」
「ありがとうでやんす! いやー、やっぱり勝つと気分がいいでやんすねぇ」
 タオルで汗を拭いながら、満面の笑みを浮かべる。当たり前のセリフをやけに新鮮な感情のように語る湯田に、思わず苦笑が漏れた。
「監督からご祝儀も貰ったでやんす! 八雲君、今日はオイラが奢るからパーッと飲みに行くでやんす!」
「あ、ゴメン。俺パス」
 さらりと断りを入れると、陽はバッグを肩にかけロッカールームから出てゆこうとする。
「ちょ、ちょっと待つでやんす。気は確かでやんすか?」
「いきなり失礼だな。今日は俺はいいから、明君でも連れてってやれよ」
 幾分面倒臭そうに、振り返りつつ答えた。
「む、そのアンタには到底似合わない聖人ぶったセリフ……陽君、何を隠してるでやんす!」
「いや、別に? じゃ、俺急がないといけないから」
「急がないと――って、やっぱり何かあるんでやんすね!」
「さあね」
 湯田の怒鳴り声から逃げるようにロッカールームの扉を後ろ手に閉めると、陽は廊下をトロット気味に走っていった。
 腕時計を見る――試合が終わってから二十分。表情、僅かに強張った。トロットから駆け足へと、ギアをチェンジする。
 球団関係者専用の入り口から外に出た。待ち構えていた熱狂的なファンがサインを求めてくる――などということは、この球団には無い。不人気球団の現実を少しばかり寂しく思いつつ、待ち合わせの場所へと急いだ。


















「遅いですよ、陽さん」
 待ちくたびれたらしい雪白冬子が顔を顰める。第一声から、これか。膝に両手を置き荒い息を吐く陽の肩から、バッグがどさりとずり落ちた。試合の疲労までもが一気に押し寄せてきたのかのような感覚――何か言いたげに冬子の顔を見上げ口を開くも、ぜえぜえと獣のような息が漏れるばかりだった。呆れたように目を閉じ、冬子がかぶりを振る。
「少し、落ち着きなさい。ほら、深呼吸して」
「すぅ……はぁ……いや、他に何か、言ってくれると思ってたからさ」
 今日、冬子に球場に来てくれと懇願したのは他ならぬ彼自身だった。いつもの倍は張り切って試合に臨んだというのに――だがそれとは裏腹に、恐らくこんな反応だろうな、という予想をしていたのも事実だった。出会ったばかりの頃は辟易するばかりだった冬子の高飛車な態度も、今ではすっかり慣れてしまっている。
 少しの間、冬子は考え込むように口元に手をやったあと、同情するような視線を陽に送った。
「そうね……あなた、よくこんな競技に熱中できるわね」
「やっぱり、退屈だった?」
 冬子が野球のルールを知らないことは百も承知だった。それでも、自分が一生懸命プレーしていれば少しは楽しめるだろうと高を括っていた。申し訳ないことをしたかと表情を曇らせる陽に、冬子は慌てて首を横に振った。
「わたしじゃなくて、あなたの事よ。試合の半分しか参加してないじゃない」
 指摘を受けて、陽は目を丸くする。なるほど、グラウンドに出ている時間という意味なら確かに半分しかない。何も知らない冬子から見れば、グラウンドに出ている人間だけがゲームに参加している人間だ。
「えーと――ベンチから眺めるのも試合のうちだから。それに、ずっと出てたら疲れちゃうよ」
 陽が解説するも、冬子はまだ腑に落ちないのか小首を傾げていた。
「そんなものかしら……」
「でも、てことは俺の事は分かったんだね。どうだった?」
「ど、どう、って?」
 冬子の頬が僅かに朱に染まる――視線を逸らし両手を体の後ろに隠す。滑稽なほど分かりやすい動揺しているときのクセ、ここぞとばかりに陽は立て続けに言葉を畳み掛けてゆく。
「ずっと見てたんだよね?」
「そ、それは、あなたしか知ってる人がいなかったから」
「自分で言うのも何だけど、今日は結構活躍したと思うんだけどな」
「うぅ……」
 困ったように言葉を詰まらせる冬子、その反応を楽しむように意地の悪い笑みを浮かべる陽。「カッコよかった」と冬子に言わせるだけのこと――自分で仕向けたことながら、ほとほと幼稚な考え。だが、ある意味その為に呼んだのだから、ここは意地を張るべきだと考え直した。
 ちらりと冬子に目を向ける。弱ったように伏せられた双眸、だが口元は依然として強く結ばれている。もう一押し必要だな――陽はわざとらしく深く溜息を吐くと、冬子から表情が見えぬように俯き、聞こえるか聞こえないか程度の声量でぽつりと呟いた。
「冬子さんが見てると思って、張り切ったんだけどな……」
「そ、そうだったの?」
「まあ、仕方ないよな。もともと、ルールも知らないのに誘った俺が悪いんだし」
「たしかに、ルールは分からなかったけど――でっ、でも、あなたのプレーがどうだったかぐらいは、分かるわ」
「でも、冬子さん何も言ってくれないし……」
「陽さん……」
 戸惑いを隠せない声、顔を見なくても冬子が逡巡する様子が手に取るように分かった。ふと気を抜けば漏れそうになる笑い声を、なんとか歯を食い縛り堪える。
 やがて冬子は目を閉じ軽く呼吸をすると、やはり恥ずかしいのか視線は逸らしたまま、振り絞るような声を発した。
「わっ、わたしは、野球のルールは分かりませんけど……陽さんのプレーは、とっても、その……カッコ――陽さん?」
 途中から声が怪訝なものに変わる。笑みを堪えきれなくなった陽が、小刻みに肩を震わせていた。やがてその意味するところに気がついたのか、冬子は顔をかっと耳まで真っ赤に染め上げると、ぷいとそっぽを向き陽を置いて歩き出してしまった。陽は急いでバッグを拾い上げると、小走り気味にその背を追いかける。
「ゴメンゴメン、ちょっとからかっただけだって」
「ひどいわ、あんな演技までして――」
「でも、嬉しかったけどね? 冬子さんにカッコいいって思ってもらえて」
「〜〜〜、しっ、知らないわ」
 陽から顔を背け、足早に歩いてゆく冬子。
 その言葉を最後まで聞けなかったのが僅かに心残りではあったが、今日はこの反応が見れただけでも収穫とするべきだろう――そう自分を納得させると、陽は冬子の横に並んだ。





















雪のツバサ

Wanderer

























「なかなか、いい映画だったね」
 映画館から出てきた陽は、外の光に目を何度か瞬きながら縮こまった背筋をうんと伸ばすと、冬子の顔を覗き見た。
 あれから数日が経った今日、陽のオフということで、二人は昼からデートの真っ最中だった。
 弱小とはいえ、ホッパーズも一応はプロの球団なので、選手にとってオフは貴重な休息の日だ。増してや二つの顔を持つ陽は疲れも人一倍溜まっているのだから、本来ならばじっくりと体を休ませるべきだろう。実際、まだその生活に慣れていなかった頃は、冬子個人の事情で大切なオフが削られることに軽い憤りすら感じたほどだ。
 いつからだったか――冬子と会うことが、悩みの種から楽しみへと変化したのは。手繰る記憶、明確な答えは出てこない。ただ、形ばかりの関係を維持するための義務感を感じなくなったということだけが、胸の中にある真実だった。
「そうね。でも、あの結末は気に入らないわ」
 小さく頷いた後、冬子は僅かに不満げに眉を顰めた。
「だって、全然幸せになっていないじゃない」
 話の結末――その手の映画にはありがちなビター・エンド。思い出すまでも無く、まだ脳裏にまざまざと焼きついている。
「うーん。まあ、そこも含めていい雰囲気の映画だったと思うけど」
「いい雰囲気の映画だったのは、認めますけど……」
 まだ何か言いたげな冬子、納得できないという風に言葉を濁らせた。これはもしかしたら、長丁場になるかもしれない。陽は腕時計に目を落とすと、微苦笑を浮かべた。
「とりあえず、何か食べに行こうか」
「そうね。続きは食事のときにゆっくり話しましょう」
 頷き、並んで歩き始める。頭の中で軽く店をチョイスすると、陽は少し気になっていたことを訊ねた。
「冬子さんは、ハッピーエンドが好きなの?」
「一概には言えないけど、少なくとも恋愛映画なら好きよ。やっぱり、物語の中でも恋人には幸せになってもらいたいわ」
「なるほどね」
 なかなか、女の子らしい意見だ。基本的に冬子はいわゆる『お嬢様生活』がたたり世間知らずだが、その分内面はとても繊細なまま保たれている。既知の事実ではあったが、自然と頬が緩んだ。
「陽さんは? ハッピーエンドは好きなの?」
「ん、俺? 俺も――」
 好きだよ、と言おうとして、何故かその言葉は喉の辺りでつかえ、意図せず別の言葉が口を割って出た。
「――嫌いじゃない、かな」
「もう、またそうやって中途半端な答えを……」
 眉間に皺を寄せ、冬子が口を尖らせる。だがそのお小言は、陽の耳には届いてはいなかった。
 どうして、ハッピーエンドが好きだと素直に言えなかったのか。現実的じゃない、などと斜に構えるつもりは無く、安っぽいからと通ぶるつもりも毛頭無い。純粋に陽はハッピーエンドが好きだったし、また仄かな憧れを抱いているのも事実だった――ならば、尚更。
「う――」
 突然目の前が歪み、陽はその場で立ち止まった。酷く、息苦しい。不思議そうに目を見開いていた冬子が、慌てて傍らに擦り寄り顔を覗きこんでくる。
「どうしたの? 顔色が、あまりよくないみたいだけど……」
「いや――ただの、立ちくらみだよ。大丈夫、大丈夫」
「でも……」
「そうだな。なら、冬子さんの肩でも借りようかな?」
 悪戯っぽく微笑みながら呟いた。冬子、拍子抜けしたのかふぅと息を吐くと、呆れたように微笑んだ。
「その様子なら大丈夫そうね。まったく、心配したじゃない」
「はは……ゴメンゴメン」
 微笑みを返しつつ、陽は天を仰ぎ見た。深く息を吸い、吐く。何度繰り返しても、押し寄せてくる不安の波は消えることが無かった。























 軽食の食べられる小洒落たレストランに入った。注文を聞きにくるウエイター、冬子が何かを頼み、陽もまた続く。自分の声が、とても遠く聞こえた。
 ウエイターが去ると、冬子は先程の映画の話を再開する。陽は時折相槌を打ちながら、頭の中では全く別の事を考えていた――考えようとしていた。『何か』が、綻びかけている。だが、肝心要の『何か』が分からない。空転する思考回路、焦りばかりが募ってゆく。
 喉がカラカラに干上がっている。覚束ない視界、ゆらゆらとまるで蜃気楼のように霞んで見える。その中心で、夢中になって弁舌を振るう冬子へと、陽の視線は注がれた。
 どうしてだろうか――テーブルを挟んだだけのこの距離が、狂おしいほどに、遠く見えるのは。
「ねぇ、聞いてるの――って、よ、陽さんっ?」
 気付けば、身を乗り出し、冬子の細い顎へと手を伸ばしていた。うわずった悲鳴をあげ、視線を行き場無く彷徨わせる冬子の頬に朱色が刷かれる。
「陽さん……何、を……?」
 分からない――焼け付きそうなほどに、眼球の奥が熱い。
 そっと、親指で唇をなぞる。想像以上に柔らかい――もっと、近くで感じたい。
 顎を僅かに持ち上げると、陽はさらに身を乗り出し、自らの顔を近づけていった。
 その時、ゴホン、と。頭上から咳払いが聞こえた。
「――あの、お客様。BLTサンドをお持ちしたんですが」
「え――あ、お、俺です」
 さっと冬子から手を離し、席に座りなおす。前を見ると、冬子は俯いたまま体を強張らせていた。
「ご、ゴメン。突然、こんなこと」
「ええ……とても、驚いたわ」
 胸に両手を添えながら呟く。それ以上この件について追求しようとしないことが、陽にとっては唯一の救いに思えた。
 しばらくして冬子の料理も運ばれ、二人は口数少なめに昼食へと移る。
 ふと、自分の手を眺める。抜けきらない熱と共に、微かに触れた唇の感触が今も残っていた。






















 月明かりに薄らと照らされる冬子の背を見送りながら、ぼんやりと突っ立っていた陽は、その姿が見えなくなると同時に、思い出したように身を翻し、熱に浮かされたような足取りで帰路につく。心の中を埋め尽くすのは、昼間のはにかむような微笑みや、拗ねてそっぽを向く横顔など、全て彼女の事ばかりで、あの後どこへ行ったか、どんな会話をしたかなどは、その記憶だけが抜け落ちたかのようにさっぱり覚えていなかった。
 心臓の鼓動が早い。胸に手を置くと、その音が一層大きく聞こえるような気がした。
 好意など存在しない、形だけの関係だと告げられた。陽自身、人助けのような感覚で付き合ってきた。しかし、胸の内に薄らと積もってゆく気持ちを無視することは、もうできそうになかった。
 ――俺は、冬子さんのことが好きだ。
 それ自体は、別段不思議なことではない。
 だが、それなら、この言い知れぬ焦燥感は一体何だというのか――?
「陽君、だね」
 背後から唐突に声が投げかけられる。全く予期せぬ来訪者に、陽はびくりと肩を大きく震わせると、反射的に身構えながら振り向いた。
 夜気を裂きつつ、ゆっくりと男が歩いてくる。薄暗がりでも分かる鮮やかな金髪と端整な顔立ちを見た陽は、知らずふぅと安堵の息を漏らした。男、感情を押し殺したような声で、小さく笑った。
「驚かせてすまないね」
「晴継さん――」
 雪白晴継、冬子の兄、大企業の社長をしている――男のデータを瞬時に並べる。陽との面識は、冬子と付き合うこととなったあの夜の一度きり。雪白家の込み入った事情を陽は知らなかったが、あまり良くは思われていないはずだ、と勘ぐっていた。
「急に、どうしたんですか?」
「ああ……キミは、なにか隠していることはないか?」
 すぐに冬子との約束が思い浮かぶ――気付かれたのか? 内心舌を巻きつつ、平静を装った。まだ疑念止まりならば、強引にでも隠さなければいけない。
「さて、なんのことでしょうか」
「――野球以外に、何かしているだろう」
「さあ。俺はただの野球選手ですけど?」
 飽く迄シラを切り続ける。すると、晴継の双眸がすっと絞られた。
「CCRの組織員でも、かい」
「な――」
 息を呑んだ。言葉が続かなかった。まさか、俺の隠し事に目をつけてくるとは――それと同時に、尾を引き続けていた炎の正体が、やっと分かった気がした。CCRの組織員。今、この何気ない一瞬でさえ、サイボーグ達から命を狙われていてもおかしくない存在。そんな人間が、果たして、ハッピーエンドなんてものを望めるのか。一人の人間を幸せにすることができるのか。自分の明日すら、保証もできない人間に。
 答えは――言うまでもなく、分かりきっていたことだった。ただ、徐々に移りゆく情の陰に隠れ、忘れようとしていただけだった。
「できるならば、妹を悲しませたくはない……危険なことに巻き込みたくない。キミにどうしてほしいか、わかるだろう?」
 分かるとも――苦しいほどに。声にならない悲鳴が頭の中で響く。
 だが、理性を蝕む本能は、それを是認してしまうのを拒絶していた。懊悩が胸から溢れ出し、頬を歪める。
 俯き押し黙る陽、晴継は相貌に緊張を走らせたまま深く息を吐くと、右腕をコートの中へと滑らせ、オートマチックを陽の額へとポイントした。
「晴継、さん……」
 絶望感に満ちた呟き、晴継は黙殺し、固く握られたままの左拳にさらに力を込めた。
 はじめから、晴継に交渉する気など無かったのだ。譲歩の余地も無い、ただの脅迫。それを悟ったとき、陽は燃え盛る本能の憤りよりも、どうしようもない遣る瀬無さを強く感じていた。
 懐のリヴォルバー、伸びかけた手を、だらりと落とす。そして軽く会釈をすると、晴継に背を向け夜闇の中へと歩き始めた。息を呑む声が、背後から聞こえる。だが、撃ってくる気配は感じられない。
 撃てないんだ――俺も、あんたも。
「何故、抜かない」
 怒気を滲ませ晴継が問いかける。陽は自嘲とも失笑ともつかぬ笑みを浮かべると、銃をポイントしたままの晴継へと振り向いた。
「俺が晴継さんを撃ったら、冬子さんを悲しませることになりますから」
 ――振り絞るような声色のそのセリフは、陽に残された、最後の意地だった。
 再び、無防備な背を晒し帰路に戻る。銃が仕舞われる気配は無かった――ここで撃たれても構わなかった。


















 帰宅した冬子は、いつもは延々と続ける城田らへの感想報告もそこそこに、入浴を済ませるとさっさと自分の部屋へと戻っていった。
 ベッドに腰掛け、クッションを抱き締める。風呂上りの火照った体が妙に熱い――そうでなくても、今日はずっとのぼせていたような気分だった。
 瞼を閉じれば、昼間のことがありありと浮かんでくる。唇に触れた指、そして、ゆっくりと近付いてくる陽の顔。思い出すだけで、鼓動はどんどん早く強くなってゆく。
 どうして、彼があんなことをしたのか――その理由は、分からない。だが今回の場合、冬子にとって理由は二の次だ。前々から感じていた、陽に対しての不思議な気持ち。ドキドキして、とても切なくなり、いてもたってもいられなくなる気持ち。形だけの関係では、決して味わえない気持ち。そんな気持ちを伝える決心が、ようやくついた気がした。
 ――陽さんも、わたしと同じ気持ちなのかしら。
 ふと、疑問が頭を過ぎる。もし、違ったら――未だに、律儀に形だけの関係を続けてくれているのだとしたら――考えを打ち消すようにかぶりを振った。そんなはずはない。陽のする笑顔は、いつだって偽りの無い、冬子にとってはかけがえの無い素敵なものだった。
 だとすれば、問題は告白の方法になる。如何せん、まったく経験の無いことだけあって、どうすればいいのかさっぱり分からない。こんなことは誰かに相談できるはずもないし、そもそも彼のことを考えただけで頭が真っ白になってしまうのだ。
 どうすればいいのかしら――冬子はクッションをぎゅっと掻き抱くと、そのまま仰向けにベッドに倒れこんだ。
























 それから一週間ほど過ぎた日の夜更け。二人は雪白家へと続く道を、いつもと同じように並んで歩いていた。














 冬子の俯き気味の視線は、漠然と足元の辺りを見つめている。
 最近、陽といるときはいつも頭がぼーっとしていたが、今日はそれに輪をかけて思考がまとまらない。
 息が白くなるほど冷え込んでいるというのに、体はまるで病気のように熱い。
 いつ思いを伝えようか、そればかりを考えていた。
 だが、口を開こうとするたび羞恥心が邪魔し、結局夜になってしまった。
 折角、今日は自分からデートに誘ったというのに――このまま、何事も無くいつも通り別れてしまうのか。
 それは嫌だ。
 いつまでも形だけの、仮初の関係でいたくない。
 冬子は止まらぬ足になんとか自制をかけると、大きく深呼吸をし白い息を吐き出した。

















 結局この一週間、何度か電話で会話する機会こそあれ、冬子に別れ話を言い出すことはできなかった。
 もう、会うのはやめにしないか――たったそれだけの言葉が、喉につかえ、そのまま発せられることなく感情の波に流されてゆく。
 感情はいつでも正直で、自分でも嫌になるほど本当の気持ちを提起してくる。
 別れたくないと叫んでいる。
 ふざけるなよ――理性の声が、晴継の声が響く。
 それなら、どうしてあの時、はっきり嫌だと言わなかったのか。
 彼女の幸せを願うなら、どうするべきなのかは理解している。
 あとは、感情を握りつぶせるかの問題。
 目を瞑り、開く。
 そして金髪の少女の姿が隣に無いことに気付き、陽は数歩後ろで立ち止まったままの冬子へと向き直った。

















「どうしたの?」



















 幾許かの間を置き、冬子の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。






















「わたし、最近気づいた事があるの」






















 早鐘を鳴らす心臓がうるさい――距離が離れていることに心の中で感謝した。























「あなたの事が好きだわ」




















 それは、心から望んでいた――そして、最も言わせてはいけない言葉だった。























「こんな言い方しかできないけれど、あなたの事が、とっても好きだわ。あなたは、どう?」
























 なんて不器用な告白だろうかと、誰かが聞いていたら笑い出しそうな稚拙な物言い。
 だが、下手な言葉で飾るよりも、よっぽどこの方が思いが伝わるだろうと、冬子は信じていた。
 彼の返答までの時が長い――胸がキュッと締め付けられるように痛む。
 その部分を包み込むように胸の前で手を重ね、冬子は陽の言葉を待った。





















「俺は――俺、は」

















 胸の中で揺れる気持ち――俺も、好きだよ――送るはずの返事を、掻き消した。
 唇を噛み締めた。ぷつぷつと流れ出る血、鉄の味が口の中に広がる。手遅れかもしれない――それでも、傷つくのは自分だけでよかった。





















「ごめん。冬子さんの思うような返事は、返せない」





















 ――え?
 思わず、自分の耳を疑った。
 拡散していた思考が急速に集束してゆき、驚くより先に、何故? という疑念の一点にまとまった。




















「そう……どうして? って、聞いていいかしら」



















 冬子の様子に、取り立てた変化は見えなかった。
 だが、内面までそのままでいられるはずは無い。そのことを考えるだけで、罪悪感に押し潰されそうだった。
 気丈な、強い子だ――未だに感情を殺しきれない俺とは違う。





















「もともと……お見合いを引き伸ばすための口実、だったんだし……」
「今……でも?」
「――うん」


















 今度こそ、驚きを隠せなかった。
 この人は、ずっと律儀に形だけの関係を続けていたのか――俄かには信じられない話。
 だが、それを裏付けるように、陽の眸子は据わったまま動かない。



















「嘘よ……あなたは、それだけの理由で、わたしに何度も会ってくれていたの? 少しでも期待した、わたしがいけなかったのかしら」
「それは――」



















 違う――悪いのは、全部俺なんだ。言いかけた言葉、唇を強く噛み、飲み込んだ。
 謝りたかった。だが叫び声は発せられることなく、ただ頭の中で何重にも木霊する。



















「そう……わたしって馬鹿だわ。今日、こんな事を言わなければ、またいつものように会えたかもしれないのに……」
「冬子さん……」


















 未練がましい台詞が自らの口から勝手に零れる。嘘だといって欲しかった。笑えない冗談は嫌いだったが、このときばかりは、切にそれを望んだ。
 だが、陽の口は真一文字に結ばれたまま、それ以上の言葉を続けようとはしなかった。



















「わかりました。会うのは、今日でおしまいにしましょう」




















 本当は、いますぐにでも、泣き出したい気分だった。
 何も言わない陽へと微笑みかける――その目尻に、やはり、堪えきれない涙が溜まった。






















「今まで、ありがとう。陽さん」





















 そう言ってお辞儀をした冬子の目から、すぅと流れ出た涙が、陽の網膜に焼き付いていた。
 別れの言葉を返すこともできず、ただぼんやりと立ち尽くす。その視界に、何かがちらついた。緩慢な動作で、手のひらを差し出すと、その上に白い結晶がはらはらと舞い降りてきた。
 雪。季節外れの、雪が降っていた。
 いつの間に降り出したのか、見れば自らの肩の上にも――そして、去りゆく冬子の肩にも、薄らと積もっている。
 その姿が、遠い。知らぬ内に、二人の距離は離れていた。
 ああ、そうか。呟きが白い息となって漏れ出る。
 ――もう俺は、隣を並んで歩くことすら、できないのか。
 消えゆく冬子の背から目を外さぬまま、陽はその肩を包む雪へと思いを馳せた。
 それならば、どうか俺の代わりに、彼女を送り届けてくれ、と。
























 二つ折りの携帯電話を閉じては開き、開いては閉じる。意味の無い行動が癖になっていた。時間が空いたとき、布団に入る前、綺麗な景色や面白い物を見つけたとき――日常のありとあらゆる場面で、ポケットを弄る自分がいた。
 無意識の内にボタンの上で指が滑るように動く。アドレス帳、冬子の名前まで選択したところで、突然夢から醒めたかのように目をパチパチと瞬くと、陽は溜息を吐きながら携帯を閉じた。寮の窓から仰ぎ見る真冬の空は、墨汁を零したようにどこまでも暗い。
 冬子と別れてから、何ヶ月が過ぎたか。あれ以来、冬子と知り合う前の生活に戻っただけだというのに、どこか胸の中にぽっかりと穴の開いたような気分が続いていた。
 何をしているんだろうな、俺は――望まない別れだったのは確かだ。晴継の脅しが無ければ、先に思いを打ち明けていたのは自分の方だったかもしれない。だが事実、別れ話を切り出したのは陽であり、それを決断したのもまた陽自身なのだ。行き場の無いモヤモヤとした鬱憤の矛先、向けられる相手などいるはずも無く、いつまでも思いを捨てきれぬ自分へと返ってくる。
 あまりのみっともなさに反吐が出そうだった。
 携帯を開く。画面はアドレス帳の冬子の欄のまま変わっていない。
 もう、連絡を取ることも無いんだ――ボタンを操作し、消去の画面を起こす。アドレスを消したところで忘れられるとは思えない。だが少なくとも、この不毛な行動を取ることは無くなる。
 手がじんわりと汗ばむ。指が小刻みに痙攣する。ただ一度、ボタンを押すだけの動作が酷く難しい。しっかりしろよ陽、お前はどこまでカッコ悪いんだ――呆れるような叱咤が耳元で聞こえた。だがその声も虚しく、親指は何かに操られるように操作を中止し、画面を待機状態へと戻す。
 潰さんばかりの力で、強く携帯を握り締める。気付けば、何かに耐えるように歯を食い縛っていた。
「チクショウ――チクショウっ!」
 叫び声と共に、携帯を壁へと投げつけた。そのまま立ち上がると、バットを引っ掴み素振りを始める。
 悔しかった――本心とは裏腹の、言うしかなかった嘘が。
 情けなかった――気丈に振舞った少女に比べ、あまりに脆弱な己の意思が。
 腹立たしかった――今もなお、あの日から一歩も動け出せずにいる自分自身が。
 一振りごとに火照ってゆく体、額に浮かんだ玉の汗が目元に流れ、涙が漏れ出た。
「うわ……荒れてるでやんすねぇ」
 背後から声が聞こえた。陽はバットを肩に乗せると、手近なところにあったタオルで汗と涙を拭きながら振り向いた。
「何か用? 湯田君」
「用? じゃないでやんすよ。室内で素振りするのは勝手でやんすけど、壁に当てないようにしてくれ、でやんす! ここの薄い壁はメチャクチャ響くんでやんすよ!」
「ああ――ゴメンゴメン。気をつけるよ」
 気の無い返事を返す。そもそも、バットを当てたわけでは無い。
 どこか元気が無いことを雰囲気で察したのか、湯田は顎を摩りながらじっと陽を見つめると、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「ははーん。さては八雲君、実は結構ナイーブなんでやんすね? 普段は全く興味無さそうな素振りをしておきながら!」
「……何の話?」
「とぼけなくていいでやんすよ。クリスマスなのに、誰もお相手がいないから拗ねてるんでやんしょ?」
 見当違いな想像、だが呆れるより先に驚いていた。クリスマス――もう、そんな時期になっていたのか。
 時計に目をやる。昨年の今頃は雪白家に呼ばれ、城田の手料理に舌鼓を打っていた。その後、晴継と顔を合わせたくないという冬子の要求からこの部屋に移動し、牧村も含め三人でロマンの欠片も無い聖夜を過ごした。あの頃はまだ冬子の態度にも慣れておらず、楽しい夜だったかと問われれば首を傾げざるを得ない。だがそんな苦い記憶でも、今の陽にはたまらなく愛おしいものに思えた。
「安心するでやんすよ八雲君。今日は親友のオイラがつきあってやるでやんす!」
 嬉しそうにポンポンと陽の背を叩く湯田。二人で飲みに行くような気分では無かった。
 だが、思い出してしまった以上、この部屋にいることはできなかった。
 バットを元の位置に寝かせると、陽は外套に手を伸ばした。
「そうだな。行こっか、湯田君」
「レッツゴーでやんす!」
 腕を振り上げ意気揚々と出てゆく湯田の後に続いて部屋を出る――振り返ることは無かった。






















 元日早々のお客――牧村の開いたドアから姿を現したのは、晴れ着に身を包んだ野崎維織だった。冬子はぼんやりと見ていた外の景色から目を離すと、少し拗ねた表情の親友を驚いたように見上げた。
「維織? どうしたの、いきなり」
「『どうしたの』は、私のセリフ。ずっと待ってたのに……」
「ずっと――?」
 ふと俯き、考え込む。しばらくして、あ、と小さく呟きを漏らした。
「忘れてたわ――初詣の約束、してたわね」
「朝から、ずっと一人で待ってた……」
 恨みがましい視線を向けてくる維織。外は寒かったのか、小刻みに震えているようにも見えた。
「ごめんなさいね……すぐに、着替えてくるわ。城田、温かい紅茶を維織に淹れてあげてちょうだい」
「心得ましたぞ」
 城田にそう言いつけ今から出て行こうとした矢先、服の裾に僅かな張りを感じ冬子は立ち止まった。子供のような呼び止め方に呆れながら振り向くと、維織のどこか不安げな瞳と目が合った。
「冬子……なにか、あったの?」
「な、なにかって?」
「分からない……けど、冬子が約束を忘れるなんて、珍しいから」
 一瞬、話してみようか、という考えが脳裏を過ぎる。城田にも牧村にも話せない悩み事だったが、親友の維織になら話してもいいかもしれない――だが、冬子はやんわりと首を横に振った。
「なんでも――なんでもないのよ。ただ、少し考え事をしてたの」
「そう……」
 掴んでいた裾を維織が離す。お世辞にも巧いとは言い難い誤魔化し、納得してくれたかは分からない。
 いいのだ、これで。話したところで、何かが変わるわけでも無いのだから――翻した背から、維織の視線が離れることは無かった。



「かなり混んでるわね……」
「……だから、朝早く待ち合わせしてたのに」
 参道から逸れた人の少ない場所で、維織が不服そうにそっぽを向く。急いで振袖の着付けを済ませた冬子だったが、既に神社は多くの参拝客で賑わっていた。
 のろのろと動く人ごみ、実際にお参りするまでにどれだけ時間がかかるかは分からないが、その中に入らないわけにもいかない。冬子は溜息を吐くと、膝を抱え込むように座り込んでしまった維織に声をかけた。
「ここにいても仕方が無いわ。行きま――!?」
 言葉が不意に途切れ、不審に思った維織が冬子の顔を覗き見る。その視線は、相変わらず牛歩の如き速度で前進する人ごみの一点に釘付けになっていた。
「どうしたの……?」
 立ち上がり小声で問いかける維織の声も届かないのか、冬子はぼんやりとその一点を見つめたまま、一歩、また一歩と近づいてゆく。つられて歩き出した維織だったが、数歩進んだところで、突然立ち止まった冬子の後頭部に鼻をぶつけた。はっと我に返った冬子が振り返ると、赤くなった鼻の頭を摩りながら維織が涙ぐんだ目でこちらを睨んでいた。
「痛い……」
「維織! だ、大丈夫?」
「大丈夫……それより、どうしたの? 誰か、知り合い?」
「いえ……人違いだったわ」
 ぽつりと、水滴を零すように呟くと、冬子は俯き黙り込んでしまった。どうにも、今日の冬子はおかしい――維織が首を傾げる。とはいえ、その原因はさっぱり見当もつかない。それを問い質すにしても、まずは初詣を済ませてしまうべきだろう。
「行こ……冬子」
「ええ――えっ?」
 維織に手をとられ、驚いたように声をあげる。
 親友に手を握られるくらい、どうということはない。
 ただ、この場所で感じる手の温もりは、一年前の記憶を鮮明に呼び起こしてしまうから。
「――っ!」
 気付けば冬子は、はたくように維織の手を振り解いていた。そして自分の手を見つめると、胸の前で抱え込む。
「冬子……?」
「ごめんなさい、維織――あなたを拒むつもりなんて、なかったのに」
 こんな弱々しい表情をするなんて――維織は今にも泣き出しそうな表情の冬子に戸惑いながらも、ふるふると首を振った。
「うん……分かってる。大丈夫」
 慰めるような、宥めるような維織の声。何も詮索してこない友人の配慮に感謝したかったが、それも敵わぬほどに胸がぎゅうぎゅうと締め付けられるように痛む。
 会いたい。会って、話がしたい。彼の笑顔が見たい――叶わぬ願いばかりが空虚な胸中を満たしている。
 項垂れ小さく肩を震わせる冬子を、維織はただ見守ることしかできなかった――どんよりと沈んだ空から舞い降りた雪だけが、その肩を優しく包み込んでいた。





















 規則正しいリズムで呼吸をする――何も考えずにただ走り続ける。
 公園に差し掛かったあたりで腕時計を見ると、既にオーバーワーク気味の時間になっていることに気がついた。
 陽はゆるやかにランニングの速度を緩めてゆくと、近場にあった円形のベンチに腰掛けた。
 容赦無く吹きつける北風を心地よいと感じてしまうほど、体は熱を帯びている。ゆっくりと深呼吸を繰り返すたび、視覚や聴覚が明瞭なものになってゆく。
 その視界の隅に一組のアベックが映った。両手をベンチにつきながら何気なく眺めていると、アベックは人目も気にせずに熱い抱擁を交わし、そのまま唇を重ね合わせる。
 見知らぬ男女の姿、ふと瞳を閉じれば、それは自分とあの少女と入れ替わる――陽は天を仰ぎ深く嘆息をつくと、吐き捨てるように呟いた。
「真っ昼間っから、いいご身分だな」
「――なら、同じように真っ昼間から公園にいるあなたはどうなの?」
 からかうようなトーンが背後から聞こえる。陽は一瞬目を見開くも、すぐに冷めたような表情に戻ると首だけを振り向かせた。
「リンか……こっちは自主トレだ。一緒にしないでくれ」
「軽い挨拶よ。ジョークを解せない男はモテないわよ」
「ほっといてくれ」
 つまらなさそうに、怒ったように睨みつける。リンは涼しげな顔でその視線を受け流した。
「元気が無いようね、八雲君」
「ランニングの直後だからな」
「精神的な話をしているのよ」
 何が言いたい――陽の双眸、さらに細く絞られてゆく。
「CCRの顔を脅迫材料にされて、別れさせられた――そんなところかしら?」
 勢いよく立ち上がった。リン、そうなるのを予想したかのように落ち着いた面持ちで陽を見上げていた。
「リン、お前……まさか」
「私からは何も言えないわ。でも、もしあなたの考えている通りだとしたら?」
 何も言えない――依頼人と情報屋、最も重要なものは信頼関係。だが、ほとんど答えを言っているようなものだった。陽は目を固く閉じると、数回極めてゆっくりと呼吸を繰り返す。
「とりあえず、思いっきりぶん殴りてぇ。でも、それがお前の仕事だ。だから、俺にはどうしようもない」
「そういうときは『女は殴れない』とか言うものよ。でも……ありがとう」
 珍しく、何かを悔いるような声色だった。陽は知らず握り締めていた拳を開くと、力なくベンチへと腰掛ける。怒りはまだ胸中でとぐろを巻いている。ただ、リンもまた矛先を向ける相手では無かった。誰も彼もが他の人間の為に行動し、それぞれの立場によって喜び、また悲しんでいる――自分はただ、悲しむべき立場にいたというだけの話だった。
「気にするなよ。そもそも、別れ話を切り出したのは俺だ」
「そう……」
 それからは、お互い言葉を発しようとはしなかった。
 ただ黙り込んだまま、時間だけが過ぎてゆく。いつの間にかアベックもいなくなっていた。
 冷たい風が体を弄る。そろそろ寮に戻ろうかと腰を浮かしかけたとき、ふとリンは陽を見ずに口を開いた。
「ねえ、八雲君。ハッピーエンドってどう思う?」
 唐突な質問――デジャヴェク。ただ、あの時は問う側だった。
 その意図を量りかね口を結んだままでいると、リンは視線を横にずらし、再度問いかけた。
「好きとか嫌いじゃなくて、具体的にあなたの考えを聞きたいの」
 ハッピーエンド。憧れの対象、だが憧憬は理想の話であり、それ以上でもそれ以下でもない。陽は短く息を吐いた。
「ハッピーエンドが存在するのは、いつか終わりがくるお伽噺の中だけのことだ。現実は違う、最後に待っているのはいつだってほろ苦い結末だ。一つの物事が終われば、また次の物事が始まる。幸せなエンディングはいつまで待っていても来ない。ハッピーエンドなんて、近付こうとすれば、触れようとすれば消える――幻でしかない」
「ふーん……現実的なのね、意外と」
「ただの事実だろ。目先の幸せばかり追っていれば、いずれ後悔することになる」
「だからあの子とも別れたの?」
 リンの顔を見た。彼女もまた陽の顔を見つめていた。お互いを射抜くような目線がかちあう。
「ああ、そうだよ。俺なんかと付き合ってればいずれ彼女は不幸になる。俺自身が危険な目に遭うならまだしも、その被害が彼女にまで及ぶことになったら? 俺はどうすればいい? 告白を受けても、俺たちの物語はハッピーエンドで終わらない――なら、ああするしかなかっただろっ」
「なら、仮に八雲君が正しいとして。それであなたは、いつになったら幸せを享受するつもり?」
「は――?」
 全く予想外の質問に、陽はきょとんと眸子を丸くした。
「ハッピーエンドで終わらないから願望は掻き消す。これからもずっと、妥協し続けながら生きていく。あなたはそれでいいの? このままずっと後悔していて、その寂しさで何ができるというの?」
 リンはそこで言葉を一旦切ると、それに、と付け足した。
「彼女もハッピーエンドを望んでる。生まれたばかりの恋心をずっと抱いたまま、手離せないまま苦しんでる。どうするべきなのか、それを決めるのはあなたの自由――でも」
 話しながら立ち上がったリンは、くるりと黒いコートを翻すと座ったままの陽へと穏やかに微笑んだ。
「幸せなハッピーエンドに大切なのは、迎えた後にどうしていくかだと思わない?」
「――お前、結構世話焼きだったんだな。いい姉になれるぜ、妹がいたら」
 答えずに、少しだけ歯を見せて笑った。リンが肩をすくめる。
「あら、ありがと。でも、報酬は負けないわよ」
「報酬って……今のも商売だったのか」
「当然! それじゃ八雲君。あなたなりの支払い、見届けさせてもらうわ」
 片手を挙げてリンが去ってゆく。金はいらないと、暗に言っている。本当に世話焼きな奴だと、陽は思った。
 辺りはますます冷え込み、今では陽以外に人の姿を見出すことはできなくなっている。吹き抜けてゆく冷風から身を縮こまらせるように、陽は前屈みになると、両手で顔を覆った。
「チクショウ――カッコ悪いな、俺」
 指と指の間から、自嘲の声が漏れる。それから何度か頬を両側から叩くと、手をポケットの中に突っ込んだ。
「クソ……こんなときに限って、携帯が無いのか」
 陽は一つ舌打ちをすると、おもむろにベンチから立ち上がりゆっくりと走り始めた。






















 冷え込んでいた体が温まるのと同時に、ギアをチェンジし全速力で地面を蹴り飛ばしてゆく。
 耳元でびゅうびゅうと風が鳴る。
 すれ違う通行人がすわ何事かと不思議そうに振り返る。
 耳は先まで真っ赤に霜焼ける。
 息が続かず、脇腹が鈍く痛み始める。
 それでも歯を食い縛り、足を動かし続けることを止めない。
 一分一秒、一瞬でも早く、彼女の元へ往くため。
 前方を見据える双眸に、ゆらゆらと雪がちらついた。
 白い息を吐き出しながら、あの日と同じように、雪へと思いを馳せる。
 どうか――何も壊さぬまま、彼女を包んでいてくれ、と。



















「雪……」
 大学の中庭から、考え事を止めふと空を見上げた冬子が呟く。そして、僅かに顔を曇らせた。
 雪は嫌いではない。名前の親近性もあってか、この歳になってもまだ雪が降れば心が弾んでしまう――つい、最近までは。今、否応無しに思い出されるのは、枕を涙で濡らしたあの日。雪の儚さを、どうしても以前と同じような心で雪を愛でることはできなくなってしまった。
 校舎に戻ろうと、歩き始めた冬子。その憂いを帯びた横顔を見つけた陽は、フル稼働する肺に目一杯息を吸い込み、人目を気にせず声を張り上げた。
「冬子さん!」
 驚きに冬子は口をぽかんと開ける。久々に見る少女の顔は、以前と同じく彫刻のように整ったものであったが、どこか影を顰めているようにも見えた。
「陽さん――? ど、どうしたの? もう会わないって……あ、学校に何か」
「違うんだ。冬子さんに、冬子さんに大事な話があるんだ」
「え!? わたしに!? ええ、それはかまわないけど……」
 戸惑いがちな冬子の許可を受け、陽は万感の思いを込めて、ゆっくりと息を吸った。すぐにでも、積もり続けた思いを伝えたい。だが、その前に話さなければならないことがある。逸る気持ちを抑えながら、陽は自分の本当の姿を自白してゆく。サイボーグのこと、CCRのこと、潜入任務のこと――まるで現実離れした嘘のような話を、懇切丁寧に説明していった。
 ちらちらと雪が舞う中庭。残された二人の肩が、頭が、薄らと白く覆われてゆく。
「……つまり、あなたは本当の野球選手じゃなくて、裏の仕事が本業。そして、その裏の仕事はとても過酷で危険、ってこと?」
 長々とした身の上話を冬子が要約する。陽は口の端で微笑みながらこくりと頷くと、もう一度深く息を吸った。
「一度は諦めようと思った。でも、ダメだった……」
 どれほどこの瞬間を切望したか――この思いを、君に打ち明けられるときを。
「俺は冬子さんが好きです。もう遅いかもしれないけど、これが俺の気持ち」
 言い終えて、陽はふと笑い出したい衝動に駆られた。たったこれだけの言葉を伝えるのに、どれほど苦しんで遠回りしてきたのか。きっと、傍から見れば滑稽なほど、不器用な恋をしていたのだろう。
 ――前は、俺が返事をする側だった。
 固唾を飲んで、相手の返答を待つ。刹那の瞬間が永遠にも感じられる――あの時の冬子の気持ちが、今は痛いほどよく理解できた。
 胸に両手を置き、顔を淡い桃色に染めた冬子は、いくらかの時間を置いて、首を横に振った。
「……ええ。遅いです、遅すぎますわ」
「そんな……」
 やはり、遅かったのか。先程までの高揚としていた気分が、見る見るうちに消沈してゆく。自然と頭は垂れた。
 思いを伝えられれば、それで満足だと思っていた。大間違いだった。
 あの時の冬子も、こんな気分だったのか――悔しさも寂しさもなく、ただただ悲しかった。
「本当にもう……待ちすぎて、待ちすぎて、待ちすぎて、待ちすぎて、あなたの事が、もっともっと好きになってしまったわ」
「――え?」
 自らの耳を疑い顔を上げる――冬子は笑っていた。
「今から、後悔しても遅いわよ?」
「それは、もう十分したよ」
 胸の内から迫り上げてくる涙を隠すように、陽も笑みを返した。
「そうなの。でも、今度別れようなんて言ったら、もっと後悔することになるわよ? あの時、わたしがどれだけ……」
「冬子さん――」
 台詞の途中で一歩前へ踏み出し、冬子の体を抱き締める。湧き上がる愛おしさは、言葉で言い表せそうに無かった。
 腕の中にすっぽり埋まった冬子は、突然の抱擁に最初は驚いていたものの、すぐに自分も陽の腰に手を伸ばし、二人の距離をさらに縮めた。
 冬子の髪に積もっていた雪に頬が触れる。払い落とそうとして、陽はふとその手を中空で止めた。
 そうか――ずっと、守っていてくれたのか。
 あの時の冬子の思いを――こうして、何も変わらぬまま、俺と共に。
 二人を包んでゆく雪をその目に映しながら、陽は一筋の涙を零した。






























This story ends here.

But this is the neverending story.