やきもち
100のお題「012:やきもち」
金髪は世界を救う
穏やかに晴れた冬の昼下がり、交差点の一角にあるコーヒーショップはお喋りに夢中な若者や主婦たちでそこそこの賑わいを見せている。そのオープンテラスの端の席、日光除けの白いパラソルの下で、全身を覆う黒いトレンチコートに身を包み、私は瞳を閉じ背もたれに身を預けていた。コートは決して密着するタイプではないのだが、はっきりと存在を主張する胸の膨らみを隠すことはできない。コーヒーカップが一つだけ置かれたテーブルの正面に誰もいないことも相まってなのか、他の席で一服している男たちがチラチラと落ち着かない様子でこちらに視線を向けているのは、鬱陶しいほど十分に感じていた。まったくもって居心地が悪い。だがそれももう少しの辛抱だ、と自分に言い聞かせ溜飲を下げる。
そろそろね――
ふと片目を開き、腕時計にちらりと視線を落とす。そして、あと十秒と小声でひとりごちると、周囲の客たちには誰にも分からないほどこっそりと口元を緩めた。
十秒が過ぎる。目の前の通りを車が走り去って行く音だけが聞こえた。まあ、あの人がそんな几帳面なわけないか――はぁ、と小さな溜息が漏れる。
三十秒が過ぎる。誰かが近づいてくる足音に片目を開く。待ち人とは似ても似つかぬ、髪をきっちりと七三に整えたフォーマルスーツの男が私の隣を通り過ぎ店から出てゆく。再び、だが今度はさっきよりも大きな溜息。もしかして、声をかけてもらうのを待ってるんじゃないのか――自分のことだとは思いたくない、周囲の客のひそひそ話が耳に届いた。もし本当に声をかけてきたら、どうしてやろうかしら。どうでもいいことを考えて時間を持て余す。ただ待っている間はそれだけでも心が躍ったというのに、一度時間を意識してしまうとどうしてこうも待ち遠しく感じてしまうのだろう。
一分が過ぎる。信号が変わったのか車の走行音が一旦止み――その静寂を埋めるように、辺りを憚らない大声が交差点の方から届いた。
「おい、リン!」
やっと来たわね――
こちらへと近づいてくる靴音に、私はふてぶてしい声色を作り目を閉じたまま話しかける。
「遅刻よ、八雲君。時間厳守は決まりごと。罰として、今日はあなたの奢りね」
「なっ、たった一分じゃねぇか! セコいヤツだな、お前」
「それはあなたもよ。野球選手なんだから、このくらいでガタガタ言わないで」
八雲君が言葉に詰まり呻き声を小さく漏らす。その反応に頬を緩めると、私は閉じていた双眸を開いた。
「――あら?」
その瞬間、私は柄にも無く、ぽかんと口を開いた間抜け面になってしまった。オーバーに肩を落としていた八雲君に見られるより早く我に変えると、その彼の横にいた女の子に微笑みかける。軽いウェーブのかかった金髪をリボンでまとめたその姿は、私が知っているその子そのものだ。だが、あの頃よりも顔色が健康的に見えるのは恐らく気のせいではないだろう。
「こんにちは、雪白冬子さん」
「ぇ? ――あ、ご、ごきげんよう」
大きな眸子を真ん丸にし、まごつきながらの挨拶。慌てて繕った笑顔には戸惑いの色がはっきりと張り付いている。当然だ、こうして面と向かい合うのは初めてであり、増してやこの子は私のことなど知らないはずなのだから。
八雲君が二つの椅子を引き、その片方に彼女は軽く礼を述べながら座る。ぎこちない所作のレディへの礼儀――もちろん私はそんなことをされた覚えは無い。そういう関係では無かったのだから、当然と言えば当然なのだけれど。
彼女はまだ落ち着かない様子で、私と八雲君と交互に視線を彷徨わせていた。その瞳に、若干の不安と疑心の色合いが浮かばせつつ、口を手で隠し隣の男の耳元に背を伸ばした。音量を絞っているのだろうが、仕事に適応した私の耳はそんな囁き声すらも拾ってしまう。
「あの、陽さん。この方は――」
この子は八雲君のことを下の名前で呼ぶのね――二人の関係を知っている身としては当然予測できたことなのに、こうして実際に耳にすると妙なしこりのようなものを感じてしまう。もちろん、それを表情に出したりはしないが。
訊ねるあの子の顔は少しご機嫌斜めと言ったところか。八雲君のことだから、私について何も説明しないまま、もしかしたら誰かと会うということすら話さずにここに連れて来たのかもしれない。もちろん、鈍さを二乗したくらい朴念仁な彼はそんな様子に気付く由も無い。
「ああ。コイツは情報屋のリン。いつも割と世話になってる」
「リンよ。いつも八雲君の世話をしてるわ。あなたのことは彼から聞いてたの。驚かせて悪かったわね」
もちろん、本当のところは違う。八雲君が自分からその手の話を切り出すことは無く、私から訊ねることも無かったが、彼の表情であの一件がどういう決着を見せ、今二人がどういう関係なのかは簡単に推察することができた。
決して八雲君には見せないような優雅な笑みと共に、少女へ右手を差し出す。彼女もそれに応えるが、その微笑みはどこか硬い。手を離した後も、口元に指を当て何かを考え込むようにテーブルに視線を落とし、上目遣いに何度か私を見ては、メニューに目を通していた隣の男へとスライドさせる。注目に気が付いた八雲君はメニューからあの子へと顔を向けると、見る? などと呑気に言いながらそれを手渡した。わざとやってるんじゃないかと、思わず疑ってしまうくらい自然だ。
「陽さんは、もう決まったのかしら?」
「ん、俺は――」
「エスプレッソをアメリカーナで。それとBLTサンド――でしょう?」
八雲君の答えを途中から引き継ぐ。指をパチンと鳴らし頷く彼と、満足げに目を細め首を振る私との間で、あの子の目が忙しく行き来する。
「仕事の関係で、リンとはよくここに来るんだよ。俺が頼むメニューは大体決まってるから」
「たまには別の物も注文しなさい。ここは何を頼んでもなかなかいい物を出してくれるわよ」
「よく……そう、なの……」
「腐れ縁だからね。知り合って何年だったか、パッとは思い出せないな」
「腐れ縁……そんなに、長く……」
あの子が俯きがちにぽつりと独り言のように八雲君の言葉を反芻する。自分で仕掛けたこととは言え、少し可哀想だったかもしれない――相手がこの男であるだけに。
やがて彼女の注文――八雲君と同じだった――が決まり、ウェイターへとそれを伝える。私がコーヒーのおかわりを注文し、伝票は一緒でと付け加えると、彼の表情が面白いようにピクリと引きつるのが見えた。
「そういえば、今日はどうして二人で?」
事前の打ち合わせではそんな話は聞いていなかった。当然彼が一人で来るだろう、と勝手に決め付けていたのだ。
「ああ。冬子さんに、リンをぜひ紹介しておこうと思ってさ。たまにとんでもない情報を渡されるけど、頼りになるヤツだからな」
少し照れくさそうに視線を逸らしながら、だが淀みない調子で八雲君が言う。本人に意識は無いのだろうが――その真っ直ぐな態度が逆に、私の心を抉る。
そう――二人きりで会えるとはいえ、所詮私は『頼りになるヤツ』なのだ。鈍感な八雲君は、私が彼をどう見ているかになんて気付かない。情報屋とクライアントの強固な関係を崩すことが無い。『八雲陽』と『リン』の関係が変容するなどとは夢にも思っていないのだ。
私はそっと目を伏せると、出来る限り自然に、『私らしい』反応を探した。
「そう……褒めても、あなたの奢りは変わらないわよ?」
「たまの褒め言葉くらい素直に受け取ってくれ、素直に!」
八雲君が吼える。全然分かってないわね――素直に受け取ったから、こうなったというのに。
ウェイターがやってくる。三人分のコーヒーがそれぞれの前に置かれる。彼女は八雲君の前にコーヒーが置かれるや否や、少し慌てた様子でテーブル脇のミルクや砂糖の並ぶ一角に手を伸ばした。
「陽さん、お砂糖とミルクは――」
「砂糖だけよ、ミルクは使わないわ。半分だけ最初に入れて、少し飲んでからもう半分を入れるのよね?」
八雲君の代わりに答える。絶句したあの子が、何故か私でなくこくこくと頷く彼を睨みつけていた。そして、角砂糖のビンではなく白い粉の入った小瓶を掴むと彼のコーヒーへとパッと振りかける。彼の表情、一瞬の空白を置いて面白いように一転した。
「とっ、冬子さん! それ砂糖じゃなくて塩! 塩!」
「あら、そうだったかしら? ごめんなさいね、陽さん」
言い終えると、ツンと澄ました表情で明後日の方向を向いてしまう。演技も何もあったものではない、あまりにもあからさま過ぎるあの子の態度に、さすがにただならぬ空気を感じ取ったのか、八雲君は助けを求めるかのように私の方を見た。俺、何かしたっけ――目でそう語りかけてくる。まだ気付いていない。多分、あの子はいち早く察知していたというのに。さぁ、と両手を軽く広げるジェスチャーを返すと、彼はガクリと項垂れ嘆息を吐く。少しだけ気の毒に見えた。
悪いことをしただろうか――自分に問い掛けて、ノーと答えを出す。今この時は上手くいっていなくても、この二人ならまたすぐに元通りになる。だったら、今くらいは鈍感な彼に罪悪感を感じてもらおうじゃないか。それが、二人の関係にメスを入れることすら許されなかった私のジェラシーだった。
塩入りのコーヒーを顔を引きつらせながら啜る彼の呻き声を聞きながら、自分のコーヒーにミルクを入れかき混ぜる。黒い濁流の中に飲み込まれる白い軌跡が、いつまでも残っているように見えた。
終