エピローグ『黄昏時に彼女は微笑む』
病院の中はとても退屈だった。代わり映えのしない白い部屋、俺の気を滅入らせるのにそう時間を必要としなかった。
「退屈しのぎに、真っ赤に塗り替えてみるか……」
「何バカ言ってんのよ、イタローさん」
リンゴを乗せた皿を運びながら、准が嬉しそうに答えた。暇だからお見舞いに来た――彼女の決まった挨拶、嘘だった。俺が入院して一ヶ月、彼女は毎日、それもほぼ一日中俺の傍にいた。バイトも大学もサボっているのは見え見えだった。
「いや、白は単調だからな。部屋を赤くすれば、なんか血行がよくなりそうじゃないか?」
「興奮して、老人がプッツンしたらどうするのよ」
「それもそうか」
綺麗に形の整ったリンゴを頬張りながら、俺はベッドの上から窓の外を眺めていた。長く続いていた入院生活も今日で終わる。体に打ち込まれた銃弾はどれも命に関わる傷だった。担当医、一ヶ月で回復し、リハビリまで終えた俺を奇異の目で見ていた。
バカみたいに丈夫だな、この体は――どうやら簡単には死ねないようだった。
廃屋で倒れた俺を発見したのは、村から駆けつけた青年たちだった。血相を変えて出て行った俺を案じた老人が呼び集めてくれたものだった。後少し遅れていれば死んでいただろう――医者の言葉。電話の通じないあの村、今度再び訪れて礼を言おうと思った。
三島とその取り巻きたちは逮捕された。新聞の記事は小さく、テレビでは取り扱ってすらいなかった。イメージ、体面を気にする大企業の手回し――反吐さえ出なかった。ただ呆れるほかなかった。
その代わりなのか、入院費や手術費などの費用は全て『野崎』から出ていた。一度だけ世納が現れ、その旨を俺に伝え謝罪をしていった。維織のことには、一言も触れなかった。
あれから、維織とは一度も会っていない。見舞いに来る人と言えば准ばかりだった。この病院は遠前町からも遠く、むしろ准が来ること自体が意外なことだった。純粋にそれは喜んだ、だが心の底ではやはり沈む俺がいた。
まあ、当たり前だよな――。
騙し、裏切り、突き放し――最後に気が付いたからと言って、それが何の慰めになるのか。
俺が彼女に言ったことは嘘にはならないし、俺のした行動の一つ一つが彼女を傷つけたのは事実だった。
赦されるつもりは無かった。これからは、一人でこの罪を背負いながら生きてゆく。全ては振り出しに戻った。ただ、俺の心の穴だけが異なっている。
せめて、もう一度会えるなら――謝りたかった。
「ねえ、イタローさん。これからどうするの?」
准の問い。俺の心は決まっていた。
「どうするもこうするも無いさ……また、旅に出るだけだ」
「一人で?」
「ああ。もともと一人だったからな。寂しくなるけど、仕方ないだろ」
「そう、なんだ……」
准が残念そうに顔を伏せる。時計を見た。三時過ぎ、退院の手続きをする時間だった。
ベッド脇のスリッパに足を通し、立ち上がる――その時、ぐらりと上体が揺れた。腰に何かがしがみついていた。准だった。
「准?」
「イタローさん……お願い、私を旅に連れて行って!」
胸に突き刺さる声だった。准を振り返ることも出来ず、俺は室内で立ち尽くしていた。
「結論から言うなら、ダメだ、准。お前を連れて行くことは、できない」
「そんな……どうして?」
「お前には、旅に出る理由が無い」
「理由ならあるよ!」
背中に響く声。准は必死に叫んでいた。
「イタローさんたちがいなくなってから、心にぽっかりと穴が開いたみたいだった。あの頃は毎日がすごく楽しくて、すごく充実してた。でも、二人がいなくなっちゃって……私だけ取り残されて……寂しいの、あの時を思い返すと、胸が締め付けられるの……」
「准……」
腰に回された手をそっと解き、准に向き直った。准の目尻には涙が溜まっていた。俺はつくづく女を泣かせてばっかりだな――心の中で溜息を吐いた。
そして、思考回路が回り始める。俺の脳裏に、一つの考えがまとまっていた。
「なあ、准……今から、ちょっと俺の推測を聞いてくれないか」
「え……」
そう――准の話が本当なら、ピースは揃った。
「実は、さ。今回、維織を迎えに来た三島ってヤツ、アイツは『野崎』の人間じゃないんだ。事件が起こる数ヶ月前に、不祥事を起こしてクビになっている。まあ、維織と俺が旅立つ前だったようだから……維織はそれを知らなかったみたいだけど」
違和感があった。猿轡に後ろ手に縄――どう考えても、社長令嬢にする対応ではない。そして、行き過ぎた防衛。三島のクビは、世納が来たときそれとなく尋ねて分かったことだった。
「アイツはそれからどういうわけか、探偵なんて職になったらしい。今時風来坊並に希少だよな……まあ、どうでもいいけどな。それで今回の事件、実はただの傷害事件では無い事が分かった」
准は黙って俺の話を聞いていた。顔色、日の当たり具合からか心無し悪く見えた。
「アイツはどこからか俺と維織の情報を嗅ぎつけ、一計を講じた。自分をクビにした『野崎』への復讐だな。つまり、維織を人質にとって身代金をふんだくろうってわけだ」
三島の取り巻きは『野崎』とは全く無関係のならず者だった。拳銃はそのルーツから来たものであり、俺という存在を恐れた三島が雇った連中だった。
「で、ここで問題になってくるのが……探偵をやってた三島に、俺と維織の情報を流したのは誰か、ってことだ」
この一ヶ月、退屈なベッドの上で考えていたこと――どうしても、その真意を問いたかった。
「それはお前だ、准。そうだろ?」
准は俯いていた。表情は分からなかったが、肩が震えていた。
「どうして……そう、思うの?」
「まず、俺の名前と存在だ。俺がいるということはまだしも、初対面で名前まで呼ばれるってことは……事前にこちらのことは調べ済み、ってことだ」
「でも、イタローさんの名前を知っている人なんてたくさんいるでしょ? マスターかもしれないし、『野崎』の誰かかもしれないし……遠前町の人は、みんな知ってるよ?」
「マスターを含めた『野崎』の人間が、クビになった人間にそんなことは頼まないさ。それを除外して、残るのは遠前町の人間、ということだ」
最後の、選択肢を一本にする切り札。それを、紐解く。
「そして、俺らの居場所だ。普通に追ってきているなら、まずあの村で見つかるってことは無い。車中とか、向かう途中で声をかけてくるはずだ。つまり、三島はあの村に俺らが行くと分かっていた。だから悠々と後から追ってこれた、というわけだ」
「……」
「俺らが行く先を知っているのは、一人しか、いないんだ」
維織が手紙を出していた、准――彼女だけが、どちらの条件もこなす唯一の人物だった。
准の肩に手を置く。びくりと大きく震えるも、俯いたままだった。
「なあ、教えてくれ……どうして、依頼なんか?」
「私は……ただ、二人の様子が知りたかっただけだよ……」
「だろうな。人質を取ったり、俺を撃ったりしたのは三島の暴走だろう」
「二人がどんな様子か知れればよかったの。どのくらい仲がよくて、どんな話をしたりするのか――それが、ただ知りたかっただけなんだよ。信じて、イタローさん」
「ああ、信じるよ……さっきの会話で、そこまでは確証が持てた」
准が顔をあげる。涙を拭こうともせず、俺に抱きつき胸を打ってきた。
「だからお願いイタローさん、私を旅に連れて行って……傍にいたいの、イタローさんの、傍に!」
「准……」
胸を辛辣に抉る言葉――だが、俺の答えは決まっていた。
准の頭に手を置き、そっと撫でる。それだけが、俺がしてやれる精一杯のことだった。
「ダメだ。連れて行くことは、できない」
「イタローさん……」
「お前には夢がある。それを掴む為の羽も持っている。だったら飛べよ、准。俺はここからいつだって見てるさ、お前が羽ばたくところを」
そう――俺と一緒にいては、いけない。
准の頭にもう一度手を置き、髪を撫でる――それが別れの挨拶だった。
「ったく、なんなんだ退院手続きって……こんな時間がかかるものなのか」
気が付けば数時間が過ぎていた。病院の外、真っ赤な夕焼けが全身を照らしていた。
「で、これからどうするかね……」
一人になった。昔に戻った。再び自由な身になった。俺はいつでも自由だった。
やることはなかった。また、どこかで野球でもするか――首を振った。この胸の空虚は、どんなことでも埋めることは出来そうに無かった。
「最期まで泥臭くて、その後も男一人泥臭く、か……」
つくづく因果な人生だと思った。俺は大きく息をつくと、眩い射光に目を細めながら歩き出した。
彼女は、病院の敷地から出てすぐの塀にもたれかかっていた。
真っ赤な夕焼けが彼女の横顔を照らす――喉が涸れる。言葉が出てこなかった。
「――生まれ変わりって、信じる?」
いつか聞いた言葉だった。始まりは、ここからだった。
「ああ、信じるさ」
「どうして?」
「今の俺が生まれ変わりだ。あの頃とは、全然違う」
「そう……実は、私も」
維織はこっちを向いていた――陽光の中で、優しく微笑んでいた。
「一ヶ月……父さんと、直接話してきた。私は私の翼で飛びたいと、ずっと訴えた」
「維織……」
「何度翼から血が滲もうと、何度も羽ばたいて、もがいて――今日、私は……私の鎖を、切った」
「それは、つまり……」
「イタロー君、言ってた……二人で、いろんなとこに行きたいって」
「ああ、言った……」
言葉が上手く紡ぎ出せない――胸の内に込み上げてくる感情は、今にも堰を切って流れ出そうだった。
「これからは……ずっと、一緒」
そう言って、維織は最高の笑顔で、笑っていた。
「ああ、そうだな――ずっと、一緒だ」
俺は涙を流しながら、微笑みながら泣いている維織を力一杯抱きしめた。
伸びた二つの長い影が重なり、それは離れる事無くいつまでも繋がっていた。
END
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