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 総てのものから維織を守ると誓ったあの日。
 あの日から、俺と維織の関係は変わってしまった。
 二人の旅。俺が過ちに気付くのに、そう時間は掛からなかった。
 断ち切ることのできぬ鎖に繋がれた二人。ずっと一緒だと、一緒にいられると信じていた。
 呪いのような宿命を引き摺って、どこまでも歩けると信じていた。













 

黄昏時に彼女は微笑む

Wanderer


















 カタンカタンと規則正しいリズムを刻みながら、心地よい振動で乗客を揺らす寂れた列車。昼下がりの車内には、老人が一人杖をついてこちらをにこやかに眺めているのみ。ずっと結んでいた口の端を持ち上げ、愛想笑いを返すと、老人はさらに嬉しげに目を細めた。
 肩にかかる、僅かな重み。首をくすぐる、生暖かい寝息。その手元には、開かれたままの読みかけの本。維織は安らかな表情で俺に身を預けて眠っている。
 甘い香りの漂う、艶やかな長い髪をそっと梳くと、するりとまるで流れるように手応え無く手は抜けてゆく。身体の手入れなど、旅をする者にとってはろくに出来たものではない。その証拠に、俺の髪は伸びに伸びて先端は腰に届こうとしている。整えることの無い無精髭だって、ごく普通の生活をしている人間が見ればほぼ確実に嫌悪するだろう。だが、それが無宿者にとっては当たり前のことなのだ。
 それなのに、この人は――。
 維織と共に旅をするようになってからは、以前よりは頻繁に銭湯に寄るようにしている。服は定期的に新しいものを用意するように忠言してあるし、旅路もなるべく山道は避けるように心がけている。食料だって、一人のときは考えなかったほど衛生面や栄養に気を使っている。
 それでも、普通の女性であればこんな過酷な生活には耐えられない。一度、訳あって一人旅をしているという女性と出会った事があるが、栄養失調が崇り落ち窪んだ瞳と痩せた頬、お世辞にも健康とは言い難い青白い肌という、一般の美人像とはとてもかけ離れていた状態だったことを鮮明に覚えている。この世界で食料を手に入れようと思ったら、ゴミ漁りや物乞いは勿論、最悪の場合犯罪に手を染めることになる。プライドが高く腕っ節の弱い女性が、この世界で職も無しに生きてゆくことは不可能に近い。
 ところが維織はどうだろう。もともとが色白ではあるが、頬は健康的に薄い朱色、唇は張りのある桃色。黒々とした瞳は、心なしか出会った時よりも輝いて見える。体調を崩したことも無い。
 これは、野崎家との縁を切った今でも、まだある程度の資金力が彼女にあるからというのが大きいのだろう。その影響か、最近は俺の健康状態も上向いている。以前のように、脇道に生えている雑草や得体の知れない木の実を食べることも少なくなったからだろう。
 だが、こんな生活をいつまで続けられる?
 ふと、最近になって鎌首をもたげ始めた疑問。今の旅は、放浪というよりは周遊に近い。そう、恵まれ過ぎているのだ。無一文で旅を続けてきたこれまでとはかけ離れた旅、段々と昔の感覚が薄れつつあるのを感じ始めていた。食料は、その辺の店に入ればそこそこ栄養のあるものを補給する事ができる。一晩でも泊まることのでき、且つ料金は安いカプセルホテルなんてものも知ってしまった。衛生面で見ても、二日風呂に入らなければ自分の匂いが気になるほど、真っ当な人間になりつつある。果たして今の俺は、寒空の下に一人で放り出されたら生きてゆけるのだろうか?
 恐らく、もしそうなったとしても、俺はあるべき姿に戻るだけなのだろう。
 昔の感覚が戻るのを、ジリ貧になりながら待てばいい。その気になれば、山にあるあらゆる物は食料にする事ができる。風邪を引きながら、新聞紙に包まり冷風から身を庇い床に就くことなんてよくある話だ。体に沁み込んでいるサバイバルの精神は、そう簡単には消滅しないだろう。
 だが、彼女はどうだ。俺とはまるで対極に位置する、令嬢という彼女の立場。食料や寝床に困ることも無く、温室でぬくぬくと育ってきたという過去は、どうしようもない事実なのだ。突然劣悪な環境に置かれたとして、維織がそれに適応できる筈が無い。例え俺が傍にいたとしても、その終焉は火を見るより明らかだ。それだけは、何があっても避けなくてはならない。
 じゃあ、どうやって――わからない。
 俺に何が出来る――無力な俺には何もできない。
 守るんじゃなかったのか――仕方が無いことなんだ。
 その時がやってきて、俺には指を咥えて見ているだけしかできないと言うなら、野崎家と連絡を取らなくてはならない。約束を破ることになったとしても、彼女がどれだけ嫌がったとしても、最悪の事態を回避できるのであれば、それが最善の決断なのだろう。そうすれば彼女は元の道へ戻り、二度と俺と出会うこともなくなる。彼女は、俺を恨むだろうか、それとも悲しむだろうか。どちらにしても、見て見ぬ振りをして目を背けることは得意だった。一人で旅をすることも、慣れっこだ。
 そうなれば、彼女は二度と笑うことなど無くなるのだろう。笑える日まで守ってやると誓った筈が、いつの間にか、笑顔のなくなる日まで一緒にいることになっている。自嘲の笑い声が、喉から低く漏れる。なんという皮肉だ、傑作すぎる!
 彼女が、俺の責任で笑えなくなるのだとすれば、始めから俺なんていなければ良かったじゃないか!
 維織のことを本当に案ずるなら、突き放してでも定められた道を歩ませるべきだったのか。
 ただ、彼女が悲しげな顔をする事が、それだけが無念だった。車窓から顔を照らす日光から逃げるように俯き、拳を強く握った。爪が食い込み血が滲んでも、それを止めることは無い。
 俺は、これ以上の傷を維織に与えてしまうのだから――。
 その時、停車を知らせるアナウンスが、年代を感じさせるスピーカーからノイズ交じりに発せられた。窓から見える景色は、閑散とした田舎の村と言ったところか。ここが終点だということを、車掌が間延びした声で放送している。どうやら、今日はここで過ごすことになりそうだ。もたれかかっている彼女の肩を優しく揺すり、眠たげに開かれた薄目を覗き込む。
「起きてくれ、維織。終点だよ」
「……やだ」
「え?」
「……キスじゃないと、起きない」
 白雪姫の夢でも見ていたんだろうか? 維織は僅かに頬を赤く染めると、俺の視線から逃げるように外の風景を見遣った。どうも最近、キスをせがまれる事が多くなった気がする。こういう時の彼女は本当に頑固だと、経験上理解している。俺は軽く息を吐くと、抱き寄せ言われるままにキスをした。驚いたように見開かれる瞳が視界に入ったが、気に止めず唇を押し付ける。一時の静寂を置いて、俺の方から顔を離した。維織、呆然と唇を指でなぞった。
「今日のイタロー君は、ちょっと大胆」
「そう? いつも通りのつもりだったんだけど」
「……今夜は、ちょっと大変かも」
「だから、いつも通りだって」
 ぼんやりとした足つきで立ち上がる維織に、ぽんと突っ込みを入れる。少し残念そうに口を曲げる仕草に、俺は微笑みで返した。その俺の顔を、彼女はまじまじと見つめてくる。
「俺の顔に、何かついてる?」
「今日のイタロー君の笑顔、ちょっと違う」
 彼女は目敏い。怪訝そうに、眉を八の字にして困惑の表情を作っていた。
「言葉じゃ上手く表せないけど、なんか……ヘン」
「こっちも、いつも通りのつもりなんだけどな」
 嘘――笑えなくなってきている。
 ぎこちなく動く頬の筋肉に命令を出し、笑顔で答える。愛想笑いのときと同じだ、苦笑みたいな情けない顔になっているに違いないと、心の中で呻いた。
 維織は少しの間首を傾けると、そう、と小さく言い出口へと歩きはじめた。納得していない時は深く追求してこない。これも、経験から知ったことだった。
 彼女を不安がらせるな、バカ――自分の頬を軽く殴る。まるで別人のもののように、硬い皮膚が硬い音を返す。痛みも何も、感覚自体が無かった。
 何かが崩れ始めている。そんな、予感めいた思いを胸に仕舞い込み、せめて彼女の前では普段通りでいられるようにと、平手で顔を打った。
 忘れ物が無いか振り返った無人の座席を、小さな日溜りが照らしていた。




















 振り被った鉈を、木片目掛けて垂直に振り下ろす。パカンと小気味のいい音を立て真っ二つに割れたそれを、維織が回収し次の薪を準備する。餅つきのような共同作業を、山の端にかかった夕焼けが橙色に染めあげている。額の汗を袖で拭うと、涼やかな風がするりと抜けてゆく。
 遠巻きにこちらを眺めている維織の横には、俺が一時間掛けて割った薪がうず高く積まれている。指定されたノルマは幾つだったか、覚えている余裕も無いほど予想外に薪割りは重労働であった。
「維織、今いくつ割った?」
「七十四……あと、二十六」
 まだ四分の三――、俺は軽い眩暈を覚え、鉈を杖代わりにその場に座り込んだ。
 山村に来たはいいが、この村はあまりにもひっそりとしすぎていた。旅館はおろか、店らしい店すら存在しない完全なる自給自足の村。鉄道が通っていれば、ある程度の開発はされているだろうと高を括った自分自身を恨んだ。今日は飯抜きか、と駅前で途方に暮れていた俺に声を掛けてくれたのは、気のいいこの村の村長だった。旅人が珍しいらしく、ぜひうちに泊まって話を聞かせてくれと懇願された。断る理由も無く、俺たちは一晩の宿をありがたく恵んでもらった。
 薪割りをすると言い出したのは俺だ。旅の話をすれば、これからの事を考えてしまうのは必然だった。仕方が無いこととは言え、彼女と別れるときの想像なんてしたい男はいない。
 ただ泊まるだけでは気がすまない、などと心にも無いことを突然言い出し、自分で適当に目標を決め肉体労働に逃げた。運動はいい、その間は何も考えずに済む。
 当初はやんわりと申し出を断っていた村長も、やはり老人の一人暮らしでの労働は大変なのだろう、済まないねぇと詫びながら母屋の裏へと案内した。そして、今に至る。
「つつ……こりゃ、確かにジイさんには無理だよな」
 掌がじんじんと痺れる。二の腕から先はパンパンに腫れあがり、自分のもので無いかのように上手く力が入ってくれない。二三度、拳を閉じたり開いたりしてみるも、その動きさえあやふやで苦笑が漏れた。
 あと二十六。維織は平然と言っていたが、簡単に済む量ではない。だが、自分との約束を破りたくは無い。
 肩を摩り腕を回しながら、ゆっくりと立ち上がる。筋肉痛になり呻く自分の姿、鮮明に思い描くことができ、深く溜息をついた。
「イタロー君」
 その声に振り向くと、木片が飛ぶと危ないから、という理由で遠ざけていた維織が俺のすぐ傍で腕まくりをしていた。その双眸は、やる気になっているためかいつもよりちょっぴり険しい。
 まさかこのお嬢様は、俺に代わって薪割りをするおつもりなんだろうか?
 いくらなんでもそれは無理じゃないか、と怪訝な目で見る俺を、維織は意味が分からないといった様子で首を傾げながら不思議そうに見ていた。
「肩、揉んであげる」
 ――そういうことだったか。
「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えてもいいかな?」
 返事も待たずに、俺は縁側に腰掛けた。ずしりと、鉛でも背負っているかのような重みを感じ、改めて相当疲れているんだと認識した。維織はいそいそと俺の後ろに回ると、華奢な手を滑らせるように、カチカチに固まった俺の肩に触れた。指に掛けられた力は、想像していたよりも遥かに弱い。揉んでいるというよりは、くすぐっていると言った方が近かった。
「維織、もっと強くやっていいんだよ?」
「でも、イタロー君が痛がる」
 痛がるほど強くできるかは甚だ疑問だ。
「肩揉みってのはそういうものさ。むしろ、そうでないと効果が無い」
「そうなの?」
「ああ。筋肉を解してるわけだから、痛くて当然さ」
 弱々しく動いていたマッサージが止まる。何かを思案するかのような沈黙の後、維織は残念そうに小さく息を吐いた。
「……でも、無理」
「え? 何が?」
「今ので、全力」
 もう一度、肩の上で維織の細い指が踊る。その指使いは、摩っているようにしか思えないほど貧弱なものだった。心は癒されるかもしれないが、体力は一向に回復しなさそうだ。
 どうやらこのお嬢様は、俺が想像したより遥かに非力らしい。現状はさしずめ、岩をスコップで掘り返すようなものだ。維織は両手を片方の肩に置き、全体重を乗せ凝りを取ろうと試みているが、やはり微弱な重みしか感じない。うんと小さく唸る声が、妙に可愛らしいもので笑えた。
「あ……」
「ん? どうかした?」
「イタロー君、やっと笑った」
「そう――、だったかな」
 今は筋肉が自然に動いていた。懸念を消すという薪割りの目的、為されているようだった。
「うん。なんだか、すごく久し振り……」
「気のせいだよ、きっと」
 そうとしか、言えなかった。彼女を不安にさせたくない――最後は奈落の底に突き落とすというのに。どこまでも甘く、未だに彼女に気を使っている自分に反吐が出そうだった。
 そんな気持ちすら誤魔化すように会話を無理矢理終わらせ、立ち上がると脇にかけてあった鉈を引っ掴むと再び肉体労働に戻った。
 ちらりと見えた、維織の何か言いたげな表情が俺の胸を辛辣に抉る。
 俺だってもっと話がしたい。
 維織の隣で笑っていたい。
 ずっと一緒にいたい。
 そのどれもが、許されないことだった。
 その時が来たとき、せめて彼女の心に俺という染みが残らぬように――俺は維織を突き放すように、一心に薪を割り続けた。
 夕焼けの逆光で、維織の表情はよく分からなかった。























「やっと見つけましたよ。こんなところにいたのですか、維織お嬢様」
 薪割りに没頭していたせいもあってか、その声は全く予期せぬものだった。
 動揺を隠せぬまま瞬時に振り返る。頬の痩けた痩身の男が、口を真一文字に結びこちらに歩いてきていた。
 瞬時に思考を巡らせる。見覚え、無い。服装、この村には不釣合いな、よく手入れのされたスーツを着込んでいる。印象、厳格。堅物で融通が利かなさそう。体躯、俺よりは遥かにひ弱。そして最後に、男の言った言葉を思い出す。
 維織、お嬢様――
「三島……」
 維織の呟きが、誰とも無しにこぼれる。二人は知り合いだった。それも恐らく、NOZAKIグループ絡みの。
 俺の背中に何かが触れた。維織の手だった。微弱に震えながら俺に助けを求めていた。男――三島が何のためにここに着たのかを分かりきっていた。俺にどうして欲しいか、暗に示していた。
 三島は俺から一メートルほど離れた場所で止まると、右手を懐に入れスーツの内側をまさぐった。拳銃、ナイフ――どうしてかマイナスのイメージしか浮かんでこなかった。脳の奥で、警笛がけたたましく鳴り響いていた。
 滑らかな動作で引き抜かれる腕。拳を握り締め斜に構えた俺の目の前に差し出されたのは、小さな四角い紙切れだった。
「名刺?」
「ええ、私たちは初対面でしょう? 九堂、伊太郎君でしたか」
 拍子抜けした声を挙げる俺に、三島は頬の筋肉を持ち上げた。ぎこちない微笑み、俺と同じ笑み、作り笑いだった。何かを隠した虫唾の走る笑い方だった。
 警戒を解かぬまま、それを眺める。NOZAKIグローバルシステム常務という名前の横に書かれた肩書き、どのくらいの重役でどんな権力を持っているのか、全く分からなかった。
 名刺、受け取る気は無かった。親近憎悪――そんな言葉が一瞬脳裏を過ぎり、すぐに軽く頭を振って打ち消した。ちらりと一瞥しただけで視線を三島に返すと、三島もそれが分かっていたかのように差し出した手を引っ込めた。俺の内心を見透かしているかのような錯覚、気に食わなかった。
「悪いな、もらったところで返すものが無いんでな」
「知ってますよ。風来坊で旅ガラスの伊太郎君」
「喧嘩売ってるのかテメェ」
 瞼の奥がチカチカと明滅する。脳が熱を帯びてくる。男の一挙動が気に食わなかった。持ち上げた拳を三島に向けて凄むも、三島は肩をすくめて笑っていた。
「よして下さいよ。喧嘩をするためにわざわざこんな辺鄙な場所に来たわけじゃない」
 男の視線が動く。俺から、維織へと。何かを物色する目だった。獲物の品定めをするような蛇の目つきだった。本能が腕を動かし、外套を広げ維織をその視線から守る。三島、眉を僅かに吊り上げるだけだった。
「なるほど。それが今の君とお嬢様の関係ですか」
 俺と維織の関係。運命の聖夜、あの日から俺は維織の騎士だった。この世の全ての物から維織を守ると誓った、聖なる騎士だと思っていた。鎖を断ち切る剣を携えた騎士だと思っていた。全ては俺の幻想だった。
 宿命という言葉、反吐が出るほど嫌いだった。定められ変えることの出来ない道があるというなら、どうして人は夢を見るのか分からなくなってしまうから。どんな人間も前に進めると、半ば自分に言い聞かせるように妄信してきた。維織にその台詞を言ったのも、紛れも無い自分だった。
 維織は鎖を断ち切ることを望んだ。俺はそれに頷いた。どんな結論であろうと、維織が夢見て出した答えならばそれが彼女にとっての正しい道だと思ったからだった。
 ――その果てが、この現状だった。
 俺に鎖を断ち切る力は無かった。騎士だと信じていた関係、人攫いと何の変わりも無かった。
 三島の問い、答えられずに押し黙る。獣の本能、殴りかかりたくなる衝動を必死に押さえつける。ここで感情を爆発させること、俺がただの人攫いであると認めること、自分自身の否定を意味していた。
 服の張りを感じる。維織の服を握る力が強まっている。視界の隅で、不安の色を湛えた双眸がこちらを覗き込んでいた。何か言って欲しいと訴えていた。俺に出来ること――ただ、睨み続けるだけ。
「だんまりですか……まあ、いいでしょう。そんなことはどうでもいいですからね」
「……だろうな。こっちも答える気は無い」
 やっと、それだけが口から吐き出された。遠くから聞こえた、まるで自分の物でないような、酷く浮ついた声だった。男が口元だけで笑う。俺の心が全て読めているかのように。
 三島は一度腕時計に視線を落とすと、わざとらしく大きく溜息を吐き首を振った。
「時間がもったいないですし、本題に入りましょう」
 言葉と共に眼光が変わる。言われなくても分かる本題、既に男の眼中に俺は入っていない。俺には何も出来ないと理解しきっていた。
「維織お嬢様。私と一緒に帰りましょう。社長はお怒りですが、お嬢様がお帰りになるのをとても強く願っております」
 予想通りの内容――心のどこかで安堵している自分がいる。
 その言葉は、まるで家出少女を諭すような口調だった。維織の結論を根底から無視した発言だった。
 俺に回答権は無い。背後に隠れている維織を見る。維織は縋るような視線で俺の顔を見、そして口をきつく結ぶとそっと俺の腕を下げた。
 俺の横に立ち、胸に手を置き何度か深呼吸をする。幾許かの間を置いて、口を開いた。
「私は……私は、帰りたくない」
「そういうわけにはいきません。お嬢様だってそれは分かっているでしょう?」
 三島の言葉は冷酷だった。いつか、喫茶店でマスターに維織の身の上を聞いたときと同じ、維織は違う世界に住んでいるのだと語っている。ただ、マスターのような維織を思う温かさは微塵も感じられなかった。
 横っ面に刺さる視線、維織のもの。助けを求めている、鎖を切り離してくれと懇願している。そっと首を横に振る――まだ俺の出番じゃないと言いたかった。維織が悲しそうに俯く、伝わったかどうかは分からなかった。
「よく分かってるじゃないですか、伊太郎君。あなたは部外者ですからね」
 割り込んでくる三島の声。お前に何が分かる――喉に込み上げた言葉を飲み込む。正しいのはいつも俺ではなかった。
「お嬢様、少しやつれたのではないですか? 宿無しなど不衛生な生活でしょう、お体にも支障があったのでは?」
「私は……大丈夫。旅も、イタロー君がいるから心配ない」
「お嬢様、それがこれからも続くとは限りません。これまでが幸運だっただけかもしれない」
 三島の言う事は全てが的確だった。俺の苦悩を全て理解していた。思わず、眉を顰める。
「でも……これは、私が選んだ道だから」
「……お嬢様。わがままも大概にして下さい。どうしてもと言うなら、力ずくでも連れて帰ります」
 声に険が含まれる。まだ動く気配は無いが、三島は見て分かるほど苛立ってきていた。
 もし、本当に力ずくで維織を連れて帰ろうとしたとき、俺はどうするのか――
 聖夜の誓い。絶対にして、それ自体が矛盾している聖なる誓い。騎士は誓いに忠実でなくてはならない。鎖を断ち切り、閉じた世界から解き放たなくてはならない。いつか終焉を迎える破滅の道を歩き続けなくてはならない。
 気が付くと、維織が俺の腕に縋りついていた。俺の腕を放さぬように、引き剥がされぬように、強く抱きついていた。
 イタロー君と別れたら、死んじゃうよ――維織の言葉が頭の中で反芻される。
「伊太郎君。君から何か言うことはないですか?」
 三島の声には怒気が滲んでいる。どうしてお前のような奴に頼らなくちゃならない――心の声が聞こえた気がした。
「俺は、部外者じゃなかったのか」
「どうもそういうわけでもないみたいでしょう?」
 だとしても、俺から言える言葉は無い――言えるはずの無い言葉が靄となり思考回路を覆ってゆく。維織と三島、交錯する視線と願意。心の中に焦燥ばかりが溜まってゆく。口を開けば、それが叫び声となり出てしまいそうだった。
 既に睨んでいるかも分からない視線を三島に定める。俺の目はどう見えているのだろうか、三島は双眸を細め俺を一瞥すると、すぐに維織に向き直り、留めていた距離を縮めた。維織、無言で俺の背に隠れる。
「仕方が無い、既に言った通りです」
「どうするんだ」
 問いかけに応じず、三島は俺の背後に回ると、身を竦め体を強張らせたた維織の腕を掴んだ。小さな悲鳴が、やけに遠く俺の耳に届く。
「すみませんお嬢様。少々手荒になってしまうかもしれませんが……」
「いや、離して……」
「そういうわけにはいかないと言っているでしょう」
 逃げようとする維織の腕をとり、引きずるように歩き出す。すれ違い、俺の横を通り過ぎてゆく。俺はただ棒立ちになっているだけだった。
「イタロー君……?」
 維織の呟きが聞こえた。どうして何もしてくれないのかと尋ねている。どうして目を合わせないかを聞いている。選択の時が迫っている――俺は立ち尽くしていた。何も考える事ができなかった。
「イタロー君! 助けて!」
「人聞きの悪いことを言わないで下さい、お嬢様!」
「イタロー君! イタロー君っ!」
 維織が呼んでいる――振り返った。ショートしきった思考回路、最後に俺の中に残っていたのは惨めなまでのプライドだった。宿命に負ける、自分自身の否定、耐え切れなくなって走り出した。
 叫び声に似た咆哮を上げる。世界が赤に染まる。吹き荒れる暴力の嵐、留める理性は残っていなかった。三島が立ち止まり、気だるげに振り返る――網膜に焼きつく、目を見開いて驚くその相貌に、振り上げた拳を容赦無くぶち当てた。頬骨を強かに打つ感触、三島の長身が軽々と吹っ飛ぶ。バランスを崩した維織の体を受け止めると同時に、三島が地面を転げ土煙が舞った。
 肩で呼吸をしながら、ゆっくりと起き上がる男を見つめる。酷く呼吸が荒い。頭の中、蜘蛛の巣が取り払われるように段々と明瞭になってゆく。真っ赤な世界が徐々に色を取り戻してゆく。傍らに抱えた維織の表情、怖くてとても見れなかった。
 維織を自分で立たせ、よろよろと立ち上がる三島に歩み寄る。人を見下したような冷酷な双眸は、恐怖と憤怒の入り混じった様相で俺を睨みつけていた。
「どういうことだ、九堂……」
「さあな。俺にもよく分かんねぇ」
「なんだと。お前、自分が何をしたか、分かっているのか?」
「悪いな、我慢できなかったんだよ」
 素っ気無い返事だった。早く目の前から消えて欲しかった。俺を一人にして欲しかった。だが三島は口元の血を拭うと、気でも触れたかのような狂気じみた笑いを見せた。
「我慢? ……は、はは。そうか、そういうことか」
「何がだよ……」
「お前、本当は分かっているんだろう? このまま過ごせば、最後はどうなるか」
 目を見張った。何から何まで理解されていた。視界がぐわりと歪んだ気がした。
「お嬢様は、旅の暮らしに耐えられるような人ではない。まだなんとかなっているかもしれないが、ちょっとした変化で今の生活は終わりを迎える」
「やめろ」
「それを理解しているから、お前は私が連れて帰ると言ったときに口を挟もうとはしなかった。事が起こる前に、こちらから引き取ってしまえば手っ取り早いからな」
「黙れ……」
「だが、お前は自身の欲望を選んだ。お嬢様のことよりも自分の欲求が満たされることを選んだ」
「違う――」
「違わないだろう? お前が、お嬢様と一緒にいる理由をどう自分の中で理由付けているかは知らない。だが確実に言えるのは、お前はお嬢様のことを――」
「うああああっ!!」
 殴りつけた。最後まで言われたとき、俺の中の何かが音を立てて崩れ落ちそうな気がした。妄想、既に犀は投げられていた。何もかもが後の祭りだった。
 満身の力を込めて拳を突き出す。鼻柱の砕ける感触が皮膚に伝わる。拳がずきりと痛んだ。それでも熱の冷めない脳髄は狂えと命令を出していた。狂い、全てを終わらせればどれだけ救われることか――闇の漆黒さえも今の俺には救いに見えた。
 よろめく三島へと、足を踏み出す。胸を反らし腕を引く。振り抜こうとして、僅かな負荷がかかっていることに気がついた。振り返る、維織が懸命に俺の腕を押さえつけていた。
「だめ、イタロー君……」
 か細い声が聞こえた。悲しげな声だった。憂いを含んだ声だった。救いを求める声だった。脳髄が急激に冷却されてゆく――理性が復活する。腕、だらりと力なく下がった。三島は俺に向けて血の混じった唾を吐くと、スーツの泥も払わず逃げるように駅へと走り出した。
 夕焼けの中で、二人だけ取り残される。疲労が今頃になってずっしりと体にのしかかってきた。たった数発殴っただけの拳が無性に痛んだ。胸の中、ぽっかりと穴が開いたかのように虚無だった。
 何かが壊れた。聖なる誓いが粉々に砕けた。はじめから砂でできたまやかしだったような気もした。
「イタロー、君……」
 寂しげな呟き、振り向いて欲しいと言っている、抱きしめて欲しいと求めている――見せる表情など無かった。抱きしめる権利など無かった。俺は顔を合わせぬよう振り返り、家の中に退散した。

















 夕食は山菜の盛り合わせだった。決して豪華とは言えない食事、それでもいつもなら舌鼓を打っていた。今はとても何かを食べれるような精神ではなかった。それでも脳は俺に食べろと命令を下す。これが旅の生活で身についた習性だった。
 老人は嬉々とした様子で今までの旅の話を尋ねてきた。俺は表面に無理矢理作った笑顔を貼り付けながら口を動かしていた。内容、一人だった頃の話ばかりだった。道中の話をすることは慣れていた。口だけが自動的に動く中、俺の意識は全く違う場所に飛んでいた。
 目まぐるしく蘇る、今日一日の出来事。恐れていた想像とは違う形で、容易に二人の関係は崩れた。正確に言えば、俺が崩したものだった。記憶を辿れば、今よりはいい結果を生んでいたであろう幾つものIfが浮き上がる。
 列車――黙らせるべきだった。俺に盲目にすればよかった。違和感などに気が行かないほど夢中にしてやればよかった。
 薪割り――もっと構うべきだった。俺は焦りすぎていた。回復の兆しを自分から覆い隠そうとしていた。
 三島――あの男は全てを見抜いていた。俺の中のジレンマを理解していた。俺の薄汚い自尊心までも露呈しようとしていた。殴りかかるタイミング、完璧に遅いものだった。
 維織のことを考え突き放そうとした筈が、維織の声でそれを撤回する――自分で自分が理解できない。
 ふと皿に箸を伸ばそうとして、対面の維織と目が合う。彼女はずっと俺を見ていた。突き刺さるような痛ましい視線、ずっと感じていた。無視するほかに、俺には何も出来なかった。
 すぐに顔を伏せる。結局何も守ることは出来なかった。それなのにまだ軽薄な誇りが俺の中に残っている。ぶち壊したかった。守りたかった。どちらが本当の自分の意思なのか――どちらも本懐だった。
 聖なる誓いが俺を縛る鎖になっていた。全てを終わらせたい願望、絶え間なく襲ってくる破壊衝動――俺は狂い始めている。

















 部屋はどうするかと言われた。数はあるが、二人は一緒がいいかなと聞かれた。俺は首を横に振った。維織は何も言わなかった。老人は深く詮索しようとはせず、別々の部屋に通してくれた。
 シンと静まった和室、一人でいるには広すぎる部屋だった。隣の部屋で、維織も同じ事を考えているのか――脳裏を過ぎる妄想、すぐに打ち消した。どうしてか事あるごとに彼女のことを考えていた。
 藺草の匂いのする畳に寝転がる。瞼が自然と下がる――心身ともに疲労はピークに達していた。
 聖なる誓い。
 俺の旅をしてきた意味。
 心の奥底にしまっていた僅かな誇り。
 維織の決断。
 二人を繋ぐ鎖。
 様々な思いが頭の中に流れ込み、やがてその濁流は渦となり睡魔の波に呑まれて消えた。



















 夢を見ていた。維織と二人で旅をする夢だった。
 維織は俺に笑いかけている。控えめだが、心から笑っているように感じた。見たことの無い表情だった。こんな表情ができるのか、と驚く自分――そうさせることが目的だったはずだった。いつの間にかそれすら失念しかけていた。情けなさを通り越して、自分に怒りが芽生えた。
 維織の細い手が伸ばされる。俺を通り抜け、後ろにいた男の頬を触っていた。俺がいた。突然のアプローチに戸惑いながらも、彼女の手をそっと包み穏やかな眼差しを返すもう一人の俺だった。
 二人は俺の存在に気付かぬまま、ずっと二人の時間を共有していた。俺の望む世界、どうしてここにいる俺が傍観しているだけなのかが分からなかった。
 その役は、俺の物だ――!
 振り上げた拳をもう一人の俺に落とす――掌で受け止められた。もう一人の俺は俺を見ていた。醜いものをみる冷めた目線を俺に向けていた。
「お前は、何も気がついてないのか」
「何がだよ……」
「一番大事なことだ。聖なる誓いも俺自身の誇りも、そんなものを全て超越したお前の望むものだ」
「この世界、それこそが俺の望むものだろ?」
「早計過ぎるぜ。例えるなら、お前はゴールだけ見ながら走るマラソンランナーだ。だから足元にある落とし穴に嵌っちまうんだ」
「わけわかんねぇよ……」
「かもな。でも、だったらお前は一生そのままだ」
 吐き捨てられた言葉、哀れみに満ちていた。憐憫の眼差しが俺を捉えていた。居心地の悪さに顔を背けた瞬間、景色が歪んだ。目が覚めようとしていた。
 夢の世界が崩れてゆく。俺の幻影が消える。維織の笑顔も消える。
 幻でもいいから、もっとこの世界に浸っていたかった。
 伸ばした手は、虚空を掴み――俺の姿も消えた。




















 目が覚める、外は障子の外は薄暗かった。断続的に続く、静かに時を刻む雨音。旅立ちは難しかった。
 体を起こした。全身の筋肉が重たく感じた。軽度の筋肉痛だった。
 居間に向かう。老人は既に飯の準備をしていた。俺が言うより早く、旅人さんさえよければもう一晩どうかね、と誘ってくれた。雨の中を歩く、メリットなんてありはしなかった。素直に老人の好意に甘えることにし、頭を下げた。
 味噌の匂いが鼻腔をくすぐる。朝食が出来たと言っていた。食器を並べるのを手伝おうとすると、老人にやんわりと断られた。それよりお連れさんを起こしてあげたらどうだね、と微笑みながら言われた。思わず絶句し、すぐに作り物の笑顔で頷いた。
 ひんやりとした板張りの感触。右手には、ガラス越しに外の雨模様が見える。そこまで酷くない、明日になれば止みそうな案配。今は二人っきりになるのが怖かった――いつまでも雨が続けばいいのに、と願っていた。
 今朝見た夢の内容が、頭にこびり付いて離れないでいる。所詮、夢なんてものは俺の潜在意識が見せたものに過ぎない。つまり、もう一人の俺が言っていたことは俺も心の深層では理解しきっていることだった。
 俺の気付いていない、一番大事なこと。あの世界を現実にするために必要なもの。思考回路が巡る――答えの出ぬまま、俺の部屋の隣、維織の部屋の前で立ち止まった。
 俺はどうすればいい――誰かに聞いてみたかった。答えが出せるのは俺だけだった。頭を抱えて呻こうかと思った矢先に、障子が静かに開いた。
「イタロー君……」
「あ、ああ。おはよう」
 上ずった声で挨拶をし視線を窓の外に移す。この不審な様子が、維織の目にはどう映るのかがとても気になった。
「飯、出来たらしいからさ。呼びにきたんだ」
「うん……お腹すいた」
「ああ、じゃあ行こうぜ」
「うん」
「今日、雨だろ? 出発は延期にしたんだ」
「そう……分かった」
 視線さえ合わせていれば、自然な会話だった。俺は歩く途中もずっと窓の外を見ていた。板張りに響く二つの足音と小さな雨音だけが、二人の間を保つ存在だった。
「イタロー君……」
 静寂を破る、小さな呟き。独り言のようにも聞こえた。
「ご飯食べ終わってしばらくしたら、私の部屋に……来て」
 返す言葉を選ぼうとして、思考回路が動かなかった。返す返事、一通りしか思い浮かばなかった。それほどまでに、彼女の声は張り詰めていた。何かを思いつめた重みを持っていた。
 唇、喉、皮膚――すべてが乾いてゆく。声が上手く出せない。酸素を求める金魚のように、ぱくぱくとだらしなく口だけが開閉していた。
「ああ……」
 かろうじで声になった喉の呻き、それでも維織の安堵の溜息が聞こえた。
 維織が何を考えているのか、今すぐに問いただしたかった。足の震えが止まらない。期待と不安の入り混じった感情、何に期待しているのかは分からなかった。



















 部屋に戻った。飯の味はよく分からなかった。老人の話もすべて上の空で受け答えしていた。
 俺より先に、維織は居間から出て行っていた。恐らく彼女は、既に隣の部屋で俺を待っている。
 ご飯食べ終わってしばらくしたら、私の部屋に…… 来て――
 維織の言葉。しばらくがどれほどの間隔を指しているか量りかねた。今すぐにでも行きたかった。出来ることならこのまま一人でいたかった。相反する感情、どちらも本音だった。
 ただ、昨夜見た夢のことばかりが脳裏を巡る。その意味は分からない、だがあの夢が現実になるなら、それに近付くことができるなら、それより救われることは無いと思った。
 朝と同じように障子の前に立つ。喉が渇く、水をどれだけ飲んでも癒されない渇きに思えた。渇いているのは俺の心だった。落ち着け、ただ話すだけだ――手を掛け、障子を開く。維織は机に向かっていた。
「イタロー君」
「もしかして、取り込み中だったか?」
「ううん、大丈夫……入って」
「ああ」
 維織の部屋、俺の部屋と同じ広さ、同じ作り。だが藺草の匂いに混じり、甘い香りが漂っていた。維織の匂いだった。それだけなのに、心がどくんと大きく脈打つ。動悸が激しくなる。興奮していた。欲情していた。維織を求めていた。まるでつい先刻までの拒絶が嘘のように――理性と本能が俺から離反していた。
「何、してたんだ?」
 動揺を悟られないように、ぶっきらぼうに尋ねた。机の上に広げられた白い紙と封筒、少し観察すればすぐ分かることだった。
「手紙を……書いてたの」
「ああ、友達のお嬢様だっけ?」
 維織の友達、いつか聞いた話――だが維織は首を横に振った。
「違うの。相手は……准ちゃん」
「准?」
 懐かしい響きだった。元気なメイド服の少女と、あの頃の日々が脳裏に蘇る。維織が静かに本を読み、准がコーヒーを運んでくる。俺はそれを眺めながら、滅多に感じることの無かった時間の流れをゆったりと味わっていた。何も知らなかった頃、だがとても楽しかった。
「懐かしいな。ずっと文通してたのか?」
「お別れするとき、准ちゃん、手紙を書いて欲しいって言ってたから……」
「そうだよな、二人は親友だもんな」
「うん…… 今まであったこととか、これから行くところを書いて……」
 これから行くところ――今の手紙には、どんな言葉が記されているのだろうか。考えたくも無かった。
「アイツ、元気にしてるのかな。まあ、返事は来ないだろうし分からないか」
 旅人に手紙が届くはずも無い――維織は静かに横に首を振った。
「ううん、たまに電話してるから……」
「そうなのか?」
「うん。准ちゃん、相変わらず元気そうだった」
 維織が中空を見上げる。言葉には幾分か羨望の色が混じっていた。
「どんな話をするんだ?」
「手紙とは逆に……准ちゃんの近況報告。大抵、准ちゃんがずっと喋ってる」
「アイツの電話、長そうだしな」
「うん……すごく長い。耳が痛くなる」
 一方的に話し続ける准と、時折相槌を打ちながらそれを聞く維織、容易に想像できた。
「准、元気にしてるのか?」
「うん。大学に通って、最近は本格的に服を作ってるって」
「そうか……アイツには、夢があるんだったな」
 愚問だった。彼女は確かな夢を持って生きていた。いつか聞かせてもらった准の夢、一流のファッションコーディネーターになる事。俺や維織とは違い、准には毎日に何かしらの意味があった。俺たちがいなくなったとしても、それは彼女の人生に大きく影響するものではなかった。
 俺の思い描く夢、いつからか失念していた。聖なる誓いを立てた日、維織が笑える日まで守り続けると誓った日、あの頃の俺には夢があった。夢は誓いだった。誓いは呪いだった。じわじわと二人を繋ぐ鎖を侵食し錆びさせてゆく――はじめっから叶わない夢だった。
 維織の夢が気になった。昔の彼女、閉じられた世界から解き放たれることを待っていた。籠に繋がれ、不自由な空の下で自由な世界を夢見ていた。俺がしたことは、その鎖を伸ばしたやっただけだった。それでも今、彼女はつかの間の自由の中にいた。夢を叶えていた。
「なぁ、維織」
 だからこそ――
「今、幸せか?」
 そう聞かずには、いられなかった。
 不思議そうに窺う視線が俺に向けられる。俺は視線を合わせず、僅かに開いた障子の隙間から見える外の景色を見ていた。
 雨音が支配する沈黙は永遠にも感じられた。窒息してしまいそうなほどに圧迫された空気、どうしてこんなことを聞いてしまったのかを後悔した。全ての行動に俺は後悔していた。
 維織の答え――ゆっくりと、首肯した。
「イタロー君……どうして?」
 意味――どうしてそんなことを聞くのか。もっともだった。
 維織はどこまで気がついているのか、それだけに関心があった。
 俺が何か隠している、という程度なのか。
 それとも、このままでは旅が続けられないことにまで気がついているのか。
 もし後者であれば、この問いの意味は分かるはず――拙い思考、遠まわしすぎる詮索。それでも、直接尋ねて関係を壊すリスクを背負うほど俺に度胸は無かった。
「いや、なんとなくね。旅、言った通り楽しいことばかりじゃないだろ?」
「うん……歩くのは、大変」
「それだけじゃない。今は飯もちゃんとしたもの食べてるけど、本当ならその辺の野草や動物まで食べなきゃやってられない」
「イタロー君、ワイルド」
「これが常識なんだ。他にも、寝る場所に服の衛生状態、風邪を引いたらそれこそ一大事だし……維織が今まで体験してきたのは、旅って言うには生ぬるいな」
 踏み込みすぎじゃないのか――ギリギリのラインで踏みとどまればいい。
「でも維織は、そんな生活に憧れてたんだろ?」
「決められた道から外れて生きることは、夢だったから……」
「ちょっと分からないな。別に旅じゃなくても、道から外れる方法はいくらでもあったと思うけど?」
 言い方がキツくなっている――理性は既にトチ狂っている、ブレーキが壊れていた。
 困ったような、縋るような視線。見ていないフリをした。言葉を続けた。
「維織をそこまで惹きつけるものか。なあ、維織にとって、旅って一体なんなんだ?」
 維織はそっと目を閉じると、胸元で手を重ねた――何かに祈っているように見えた。
「見たことのない世界を見ること……本でも得ることのできなかった、色づいた世界を」
 そこで一旦言葉を切ると、深く息を吸って目を開いた。俺を真っ直ぐ見つめていた。
「そして、イタロー君が傍にいる喜び」
「俺?」
「うん……だから、旅じゃなきゃダメだった」
 息が詰まる。俺がここまで突き放そうとしているのに、それでも俺を必要としていた。抱きしめたい衝動に駆られた。精一杯その好意を受け止めてやりたかった。伸ばしかけた手、途中で止めた。微かに残っていた理性、そうしてしまえばどうなるかを警告していた。
「ねえ、イタロー君……」
 維織の甘い言葉遣いが耳に届く。身をずり寄せ、しなだれかかってきた。動け、もたれかからせるなという命令――筋肉はぴくりとも動かない。
 維織はそれ以上は何も言わなかった。ただ、薄らと幕を張ったような潤んだ視線が俺の顔を覗きこんでいた。見たこともないような色気のある艶やかな表情、僅かに白い頬が朱に染まっている。何を言おうとしているのか、俺にどうして欲しいのか――分からないはずも無かった。
 維織が俺を呼んだ理由――愛して欲しい、必要として欲しい。
 肩に乗せられた頭。つややかな髪から甘い香りがする。脳髄を痺れさせ、思考を狂わせる維織の匂いだった。維織の手が俺の膝の上に置かれる。下半身に血が通う――やめてくれ。
 声にならない悲鳴をあげる。なんとか足だけが感覚を取り戻す。俺は勢いよく立ち上がった。
「あ……」
「悪い、ちょっと爺さんに呼ばれてるの思い出した」
 あまりにも稚拙過ぎる嘘――逃げ出す口実、咄嗟に思いついたものだった。維織の返事も待たず、足早に部屋から出て行こうとする。
「待って、イタロー君!」
 張り上げられた声、普段の維織からは想像できないほど大きなものだった。ぴたりと、障子を跨いだところで足が止まる。再び体が俺の制御下で無くなる。
 力なく首をあげると、維織がこちらを見ていた。何か言いたそうに口を動かし、すぐに噤んでいた。
「維織……」
 渇いた喉、渇いた唇。声が自分のものではなかった。
「ダメなんだ、維織」
「イタロー君……どうして」
「聖なる誓い、なんだ」
 砕け散ったはずの誓い――俺の中でしぶとく生き続けている。
 全ての物から守り続ける――それは、俺からも。
「すまない、維織……」
 それだけを言い残して、障子をぴしゃりと締め切った。
 最後の言葉、謝罪の言葉、俺は維織を傷つけてしまった。
 しんと静まり返った廊下に一人取り残される。雨音が強まった気がした。
 雨に打たれたかった。穢れた俺を浄化して欲しかった。維織を守りたかった。
 全てが矛盾してるぜ――だが、どれもが俺の本当の気持ちだった。





















 雨足は夜になっても一向に止まる様相を見せず、逆に雨音を激しくさせ屋根を叩いていた。
 夕食後、自分の部屋、明かりもつけずに寝転がり暗い天井を見つめていた。暗渠こそが俺には似合っているように感じた。
 俺という存在が堕ちてゆく。ずるずると暗闇の中へと引きずり込まれてゆく。自分の誇りも、維織の願いも、聖なる誓いさえも――何一つ守れず、全てを手放そうとしていた。
 いっそ何も考えない世界へ行きたかった。俺は漆黒の世界でひっそりと彷徨うべき存在だった。維織が俺の傍にいることによって傷ついてゆくなら、例え彼女が何と言おうと引き離すべきだった。そして、それを邪魔しているのもまた俺だった。
 浅ましいプライド、今更になって気付き始めた維織への情欲――俺はどこまでも醜い存在だった。
 いっそ、突き放して欲しかった。必要無いと言って欲しかった。そうすれば、少なくとも彼女の心に染みは残らないと言うのに。
 目を閉じる、ゆっくりと息を吐き開く――そしてそこに、彼女はいた。
「い、維織……」
 陰になって見ることの出来ない表情。上半身を起こしながら、そっとその名を呟いた。
「イタロー君……」
 泣き出しそうな声だった。維織が泣いたところ、一度も見たことはなかった。
「イタロー君……今、何を考えてるの?」
「維織のことだ」
「ホントに?」
「ああ……」
「――いつ別れるか、考えてたの?」
 脳髄を直接横殴りにされたような衝撃が走る。誤魔化せ――思考回路は空転していた。
 違う、という言葉さえも喉を通らない。全身が乾いてゆく錯覚、悲鳴すらもあげられなかった。
「さっきイタロー君が、それに昨日、三島が言ってた……本当の旅はもっと辛くて、私なんかじゃ耐え切れないって」
「聞こえてたのか」
 小さく首を縦に振る。頭の中、真っ白になっていた。
「本当の事を言って、イタロー君。私は、一緒に旅をするべきじゃないの?」
 逃げ道はなかった。俯くように、弱々しく頷いた。
「イタロー君は、私と一緒にいるのは嫌……?」
 違う、そうじゃないんだ――声にならない悲痛な叫び声が木霊する。
「否定、してくれないの?」
「ああ……俺にその権利は、ない」
「どれだけ望んでいても、狂おしいほど求めても、それでも――」
「ダメなんだ維織……俺と君は、一緒にいるべき存在じゃなかった」
 そう――世納も言っていたこと。はじめから、住んでいる世界が違ったのだ。
 畳を雫が濡らしていた。見上げた。維織は泣いていた。大粒の涙を零し、それを拭こうともせず、ただ悲しみの欠片を落とし続けていた。自分を絞め殺したい衝動――ここまで追い詰めたことが呪わしかった。
「やだよ……そんなの嫌だよ、イタロー君……」
「頼む維織、分かってくれよ……」
「イタロー君と別れたら、死んじゃうよ!」
「忘れろよ維織――長い夢を見ていたと思えよ」
「どんな人間も前に進めるって、言ってくれたのに……嘘だったの?」
「嘘じゃない――ただ、俺には君の鎖を切る力がなかったんだ」
「また私は、籠の中に戻ってしまうの?」
「呪ってくれよ維織――俺を軽蔑してくれ、嫌いになってくれよ」
 涙が止まらない。俺は笑わせるより先に泣かせてしまった。聖なる誓いは、今度こそここで破綻した。
 突然、唇を塞がれた。維織が飛び込んできていた。引き剥がそうと肩に手を掛ける、逆に手を後頭部に回された。維織の舌が俺の中に侵入してくる――ぴちゃぴちゃと水気のある音が雨音に紛れる。悲しいほどに積極的なキスだった。
 長い長いキス、唾液の味、甘い味、口の中は維織の味しかしなかった。どれだけそうしていたのか、少しだけ維織は唇を離し息を吸う――すぐに再び押し当ててくる。流れ込んでくる激情、こんなキスはしたくはなかった。目を開く、維織は泣いていた。そのまま手を俺の下半身に伸ばしてゆく。ズボンのベルトに手を掛ける――微かに生き残っていた自制心、震える手で維織の手を掴んだ。
「やめてくれよ維織……俺を求めないでくれ、闇に突き落としてくれ」
「ダメ…… ダメ……イタロー君を求めちゃいけないなら、イタロー君が私を求めて……」
「そんな事を言うなよ……君にそんなセリフは似合わない」
「それでもいい……貴方が望むなら、私は何でもする……」
「やめろよ……それ以上俺に維織を穢させないでくれ……」
「捌け口にしてもいいから、その為だけに傍に置いてもいいから――私を放さないで……」
 何を言っても無駄だった。俺の僅かな理性は、圧し掛かってくる維織の重みと甘い匂いで片っ端から消し飛んでゆく。獣の本能が俺の脳を支配してゆく――殺してやりたかった。身を引き裂き、頭を柱に打ち付け死ぬべきだった。抗えない絶対的な力、俺はいつでも無力だった。
 寝転がった俺の上、維織が馬乗りになっていた。軽い体重、だが指一本たりとも動かすことはできなかった。脳の命令が届かない、俺の体は既に本能が支配している。生き地獄のような光景、俺は他人事のようにそれを見せられていた。二人の衣服、一枚ずつ維織が剥がしてゆく。白い肌が暗渠に浮かぶ――維織は目が眩むような美しさだった。僅かに朱に染まった可憐な肢体、それを俺は貪っていた。
 お互いの舌を差し込む、体がもつれ合う。彼女の艶かしい体を蹂躙してゆく。維織は泣いていた。笑っていた。目の前の情交しか考えられない野獣の俺、だが確かに今維織を求めていた。激しい愛欲に悶え狂う維織、見たくない笑みだった。こんな笑い方をして欲しくはなかった。維織まで狂わせてしまった、全てをぶち壊したのはやはり俺だった。俺も泣いていた――それだけが唯一の俺の理性だった。























 眠れぬ夜が明けていた。いつの間にか雨は止んでいた。
 隣では維織が眠っていた。俺はずっとその寝顔を見続けていた。獣の感情、永遠に続くかと思われた一晩漬けの情交で治まっていた。今の俺、胸の中は空虚だった。
 穏やかな寝息、涙の後の消えぬ寝顔――俺は拭えぬ罪を犯した。維織を闇の中に手招いてしまった。守らなくてはいけない最後の一線を、最悪の形で踏み切った。
 だが、頭の中はここ数日とは違いすかっとしていた。俺は完全に闇に堕ちた。誇りも、聖なる誓いも消えてなくなった。穢れた俺を受け入れることに吹っ切れていた。
 体を起こす。筋肉痛は全快していた。維織を起こさぬよう、音を立てぬようにそっと部屋を後にした。
 窓から見た空の風景――陰鬱とした灰色の雲が一面に広がっていた。雨は一時的に止んだだけだった。
 居間――老人の姿はなかった。机の上、小さな紙切れを見つけ拾い上げた。雨が上がっているうちに用事を済ませてくるから飯は勝手に食べててくれ、というものだった。味噌の匂い、朝食の準備はされていた。
 食欲、すっかり回復していた。用意された朝食を全て腹に掻き入れ、散歩でもしようかと土間を抜け外に繰り出たとき、横手に人の気配を感じた。続けて、頭に押し付けられる硬い何かの感触。
「動くなよ、九堂」
「意外と早かったな、三島」
「本当ならこんな泥臭い場所には着たくないんだが、事情が事情だからな」
「そう言うなよ。いいところだぜ?」
 目の前、痛々しげな湿布と包帯を頭に巻いた三島がいた。数人の取り巻き、一目見て分かるほど柄の悪い連中だった。そして俺の横では、そのうちの一人が拳銃を突きつけていた。
「物騒だな。維織のためなら、『野崎』は人殺しもするのか?」
「それだけ重要なんだよ、お前のような虫けらとは違う」
「ごもっともだな。実際、俺が死んだところで訴える奴もいないだろうしな」
 硬い銃口、離される様子は無かった。流れ出る死のイメージ、恐怖の扉が開こうとしている――だが、その一方で俺の心は酷く安堵していた。予想より早い到着に喝采を送りたいほどだった。
 その様子にさすがに違和感を覚えたのか、三島の眉根が釣りあがる。
「随分落ち着いているな、九堂。それに前よりお喋りだ」
「ああ、吹っ切れちまったんでね。こっちが本来の俺だ、気にするな」
 そう――今こそが本来の俺だった。何も持たず、ただどこまでも広がる暗渠の中を彷徨い続ける存在。
 三島は鼻を鳴らし俺を一瞥すると、目つきを一転させた。睨みの効いた蛇の双眸だった。
「まあ、いい。分かっているんだろ?」
「ああ。一人でダメならみんなで……か。単純なんだな、意外と」
「だが効果的だ。それに力を加えれば、お前は従うほか無い」
 服装、全員が懐のあるジャケットやスーツだった。恐らく、横にいる男以外にも拳銃やらドスやらを隠し持っている――まず俺では一方的に殺される兵装だった。
 だが、俺はそれを求めていた。目を閉じ、息を吐く――いつになく穏やかな気分だった。
「その通りだ。礼を言うぜ三島」
「礼? どういうことだ」
「これなら、こっちにも言い訳ってものができる」
 維織は俺を必要としている。俺と離れることを拒否している。だが、俺の命が掛かっているとなれば話は別だろう。拳銃を突きつけられるという異様な光景を維織が目にすれば、それで事は終わる。
「俺に抵抗する気は無い。だが、刃向かうかもしれない。銃は突きつけたままにしておいてくれ」
「ふん……気でも触れたのか? まあ、どうでもいいがな」
 三島は釈然としない表情のまま、顎で取り巻きの一人に指図する。命を受けた男はずかずかと土足のまま家に入り込み、奥へと姿を消した。
「おい、三島。維織が『野崎』に戻ったら、どうなるんだ」
「予定通り――とはいかないだろうが、じきに社長の座を受け渡されることとなるだろうな」
「そうか。そいつは……忙しいのか」
「お前が想像できないほどにな。恐らく、お前のことを考える暇も無いだろう」
 ちくりと心が痛む――そうと分かっていれば、はじめから素直に引き渡していたかもしれなかった。彼女に闇を垣間見せる必要もなかった。笑え――頬はぴくりとも動かなかった。
 家の中が騒がしい。維織の戸惑いの声が響いていた。そして、男に引っ張られるようにして彼女が現れた。何が起こっているのか分からないといった表情、眸子が俺を捉え――大きく見開かれた。
「イタロー君!」
 三島を睨みつける――お前が進めろ、と目で伝えた。
「お嬢様。手荒いことになってしまい、大変申し訳ございません」
「三島……」
「状況は見れば分かる通りです。お嬢様、あなたの答え一つでこの男の命運が決まりますが」
 維織の視線が横っ面に当たっているのが分かる。悲しい感情が包み隠さずぶつかっている。俺は顔を伏せた。前髪が垂れ、視界を覆い隠した。
 じきに彼女は俺の解放を請うだろう。そして三島が維織を連れて帰る。だが、それだけでは不十分だった。俺と維織を繋ぐ見えない鎖。聖なる誓いが消えた後も残る、二人を繋ぐ関係。それを完全に絶たなくては、彼女は闇の淵にて俺を求め続けてしまう。
 俺は、出来る限り惨めで最悪の別れ方をしなくてはならなかった。
「助けてくれよ、維織。俺は死にたくない。こんなところで死にたくねぇよ」
 震える喉、不安げな声色。死に怯える俺を作り出す。
「イタロー君……」
「なあ、維織……どうして俺は、こんな目に遭っていると思う?」
「え?」
 彼女の驚いた声。怒れ――世間知らずのお嬢様を夢から叩き起こせ。
「俺はただの風来坊だ。何者にも縛られず、ただ風の吹くままに生きてきた。そして、俺はこれからもその生き方を変えるつもりは無い。それなのに、だ」
 顔をあげる。憎しみの感情を引き摺り出し、顔に貼り付ける――維織の表情が驚愕に染まる。
「どうしてこんなことになる? どうして俺がこんな目に遭う? 教えてくれよ維織、どうして俺はピストルを突きつけられなきゃいけないんだ?」
「やめて、イタロー君!」
 悲痛な叫び声、胸が締め付けられる――俺は続けた。
「答えないなら言ってやる。君のせいだ、維織。君が引き摺ってきた鎖を辿って、こいつらはどこまででも追いかけてくる。君を道に戻すために、な」
「でも、イタロー君は……鎖を切って、大空に飛べるって!」
「俺はこうも言った。『自分の鎖を切れるのは、自分だけ』ってな。定められた道、宿命…… それを断ち切れなかったのは、君の責任だ」
「そんな……イタロー君……」
 縋るような目線、信じられないと言っている。嘘と言って欲しいと懇願している――唾を吐き捨てた。
「なんだよ、その目は。まるで俺のせいだとでも言いたげだな」
「違う……そんなんじゃ――」
「はっきり言ってやろう。迷惑なんだよ、一緒にいると。俺の旅の邪魔にしかならないんだ!」
 違う――胸が痛い。
 維織はまた泣いていた。泣かしたのはやっぱり俺だった。大粒の悲しみの雫が、頬を伝い地面に垂れた。
「イタロー君、偽りの無い表情でいてくれた……」
「演技派なんだよ。倉庫で劇団にスカウトされたこともある」
「一昨日、私を三島から守ってくれた……」
「もうちょっと遊びたかったんだ。だから、昨日抱いてやっただろ?」
「ずっと一緒にいてくれるって言ったのに……嘘?」
「体が目当てだったんだ。口説き文句としては最高だろ?」
 維織を騙し、俺自身を騙し――俺は最低の男に成り下がっていた。
 笑え――脳の命令。必然的に冷笑になった。
「頼むぜ維織……俺の最後のお願いだ。せめて最後は、俺の言う事を聞いてくれよ」
 維織は放心していた。光を失った双眸から涙を流したまま、俺の顔をぼんやりと見つめていた。返す視線、冷ややかに睨みつけた。
「三島。聞いただろ? 連れて行きたかったら連れてけよ」
「ああ、そうさせてもらおう」
 三島は笑っていた。俺に対する笑み――上手くやったものだなと褒めていた。湧き上がる黒い衝動を押し殺す。
 取り巻きの男が維織の左右につき、家の先に停まった、この村に似つかわしくない黒塗りの車に彼女を押し込める。三島が手を挙げる――俺のこめかみから、ようやく固い感触が消えた。
「ずいぶん用心深いんだな。怖いのか」
「私にはお前という男が分からない……一体、何を考えているんだ」
「さぁね……俺にもわかんねぇよ」
 空を見上げた。灰色に押し黙る鬱蒼とした空。俺の心とダブって見えた。
 維織は車内からまだ俺を見つめていた。目に見えぬ鎖、同じ場所ばかりを手繰っていた。切れてしまった鎖の先を見ないようにしていた。
 見せてやるよ維織――背を向けた。家の中に入った。戸を閉めた。
 けたたましいエンジン音、そして排気音が遠ざかり――辺りは静かになった。
 ずるずると、戸に背を預け座り込む。最悪の別れは終わった。俺の作戦は成った。
 体中から力が抜けてゆく。急激な眠気に襲われた。昨夜は一睡もしていないことを思い出した――全身に停滞している倦怠感も相まって、動く気力は残っていなかった。
 土間に倒れ込むように、俺は夢の世界へと堕ちていった。























 夢を見ていた。維織の夢だった。
 出会いの喫茶店。短いが一緒に暮らしていた部屋。繰り返される日常の中で、俺は確かに笑っていた。
 結局、俺は彼女を笑わすことはできなかった。悲しみの涙を流させることしかできなかった。約束の一つも守れず、ただ最後まで迷い続け、結局彼女を傷つけただけだった。
 守りたいものがあった。
 俺の身を擲って(なげうって)でも守る覚悟をしていた。
 全ては彼女のためだった。
 その果てで、俺は彼女を傷つけた。
 どうしてなんだ――誰も答えてくれない問い。俺はどこで間違ったのか。
 簡単だろ? お前は忘れているんだ――もう一人の俺の声がした。
 何をだ、俺は何を忘れている?
 思い出せよ伊太郎――お前はどうして彼女を守りたいと思ったんだ。
 維織と出会った。世界から連れ出して欲しいと言っていた。だから俺は守っていたんだ。
 そうだ。だが大事なところが抜けてるぜ。もっと落ち着けよ。
 どういうことだよ。
 自分で考えろよ伊太郎。お前の本当の気持ちを曝け出せよ。
 本当の気持ち――どこまでも純粋で無邪気な心。
 そして、俺はようやく思い出した。
「俺は……維織が、好きだったのか」
「ああ。素直になれよ、自分の気持ちに正直になるんだ」
 正直な気持ち。俺は維織が好きだった。誰よりも愛していた。
「一緒にいたい……ずっと、どこまでも旅をしていたい」
 俺はあの時の維織と同じだった。本心を隠し、自分の中で全てを抱え込んでいた。
「そうだろ。つまんねぇこと考えるなよ。お前が望んで、彼女も望む。それをどうして止められるんだ」
「けど! 彼女が旅に耐えられなかったら、俺はどうすればいいんだ」
「それを守ってやるのが、男ってもんだろ?」
「守るだけなら、今までの俺と何も変わらない……」
「違う。自分の気持ちに気がついた。維織を愛していると認識した。それだけで、お前は彼女のためにどこまでも強くなれる」
 そんなことが――言いかけて、口を噤む。言葉にしてしまえば、本当に出来なくなってしまいそうだった。
「信じろよ、もう一度立ち上がってみろよ」
「でも、もう遅い。既に、全部終わってしまった」
「関係ないな。お前はまだ、彼女に『愛してる』と言って無いだろ」
 記憶を手繰る――もう一人の俺の言うとおりだった。
 照れくさかったのか、言葉にすれば安っぽいなどと思っていたのか。理由は分からなかったが、俺はその言葉を言うのを無意識に敬遠していた。
「行ってやれよ伊太郎。誰よりもその言葉を待ってる人がいるぜ」
「一度裏切って、さらに今度は一方的に告白か……ホント、最低だな」
「どうせ捨てるプライドも無くなったんだ、丁度いいだろ? 言うだけ言って、連れ去っちまえよ」
「あいつら、俺が行ったら今度こそ撃ってくるかもな」
「邪魔だったら正面からぶん殴れよ。最期まで泥臭く行こうぜ。それがお前の生き様だ」
「ああ――そうかもな」
 力強く頷いた時――まどろみの世界は、ふと遠ざかった。






















 目を開いた。老人が心配げな顔で覗き込んでいた。大丈夫だと言って体を起こして見せた。これ以上無いほどに、心身ともに冴え渡っていた。老人の前で全身を解すと、息を吐き胸を撫で下ろしていた。
 雨音が聞こえた。そうだ、と老人が手を打つ。雨が降って帰る途中に、維織を乗せた車を見たと言っていた。飛び上がる心臓――食らいつくように、老人に行き先の心当たりを尋ねた。
 突然の変貌に戸惑いながらも、老人が口を開く――あの先には、一軒の廃屋だけがある。その先は行き止まり――それを聞いた瞬間、俺は立ち上がった。
 老人に礼を述べる。失礼とも思われたが、時間がなかった。少ない荷物をまとめると、制止も聞かずに家を飛び出す――軒先に何かが落ちているのを見つけた。拾い上げる、それはいつか俺が維織にプレゼントし、維織が丁寧に枝折にした四葉のクローバーだった。掛かっていた泥を払い、手の中にしっかりと収めた。
 気がついてしまったら――見過ごすことはできない気持ち。
 降りかかる雨水を、跳ね上がる泥を、体裁すらも気にせず走り出す。分かれ道に差し掛かった。曲がるか、真っ直ぐ行くか。曲がればその先には駅があり、先に進めば老人から聞いた車の行き先、たった一軒の廃屋があるはずだった。
 答え――考える時間は必要なかった。
 俺は四葉の枝折を強く握り締めると、全身を打つ雨の中、山へと通じる一本道を駆け出した。





















 廃屋は寂れた山小屋だった。木造の山小屋、ところどころの木材が腐っている。
 俺はそこがよく見える位置に息を潜めていた。服は水を吸い重々しい鈍色になっており、長時間山道の全力疾走を終えた心臓は、破裂しそうなほど強いビートを打っている。乳酸漬けになった足の感覚、まだ動けることだけを確認した。
 車はまだある。そして、見張りと思わしき男が一人入り口で見張っていた。
 違和感――連れて帰るはずが、どうしてこんな場所で留まっている?
 思考回路を巡らせようとして、目を閉じた。『野崎』の事情、そんなことはどうでもよかった。『野崎』も、三島も、全ての物は関係無く――ただ、俺の確かな俺の気持ちだけがあればいい。
 武器も策もあったものではない。ただ、熱くうねる感情だけが俺を突き動かしている。
 気配を殺しぎりぎりまで屈みながら近付く。人数、三島を含めて四人いた筈だった。無傷でいられるとは思い難い。だが、既に死は覚悟の上だった。
 俺はただ、この胸中を言葉にして伝えられれば――それでいい。それだけでいい。
 残る距離五メートル。射程距離、足に溜められた力を解き放ち地面を蹴り飛ばす。気配を感じて振り向いた男の顔が凍る。男が懐に手を突っ込むより早く、俺は拳を突き出した。鼻柱を砕く感触。続けざまに、乱打。身を守ろうとする腕を掻い潜り殴り続けた。よろめいた男のガードが甘くなった瞬間、吸い込まれるように俺の放った右拳が顎を殴りぬけた。潰れた蛙のような声と共に、男が吹っ飛ぶ――残り、三人。
 何事かとドアから飛び出てきた男、こちらを見つけるよりも早く俺は跳んだ。体重を乗せた渾身の右ストレートを、動転しうろたえる男の顔に正面から叩き込む。強かに骨を打つ感触――轟音が響く。体が吹き飛ばされ、ぬかるんだ泥の上へと転がる。下腹が焼けるように熱くなっていた。扉から出てきたもう一人の男に撃たれた、と認識した。歪む視界、激痛で目尻に涙が滲んでいた。雨音が遠のく、ふと気を抜けば意識が飛びそうだった。まだ死ぬわけにはいかなかった。
「うあああっ」
 獣の咆哮を上げ突進する。片腹を押さえながら駆ける様は、どれほど格好悪いのだろうか。泥に塗れた自分、ゴミのように転がる自分――笑えた。腹の底から笑って、傷が痛むのも気にせず笑った。銃を構えた男の表情、嘲笑から一転し戦慄していた。目の前の俺を信じられないと言っていた。その表情が面白くて、俺はまた笑った。笑ったまま跳び蹴りを放つ――不意打ち、男の胴体に深々と足が突き刺さった。くの字に折れる男の体、なだれ込むように室内に転がり込んだ。最高に不恰好な蹴り、だが男は昏倒していた。
 室内でまず目に入ったのは、両手を後ろ手に縛られ猿轡(さるぐつわ)をされた維織だった。目を瞑っている――眠っている、眠らされているようだった。憤懣と恐怖の入り混じったような目で俺を見る三島がその前に立ちはだかり、維織の姿は隠された。
「私にはお前が分からない……何を考えてるんだ、お前は! あぁ?」
「言っただろ……俺にも、わかんねぇんだよ……」
 震える足、あと少しなんだ――壁に手をつき立ち上がった。頭、ぼんやりと思考が霞んでいた。たった一発の銃弾は予想外に俺の体をぶち壊していた。満身創痍の体、あと少しだけ動いてくれればそれでよかった。空いている左手を突き出す、三島は気圧され後ずさりながら拳銃を取り出した。
「『野崎』は……人殺しもするのか……?」
「黙れっ!!」
 引鉄を引く、壁についていた手に電撃が走った。支えをなくし、俺の体は前のめりに倒れる――笑った。頭でも胸でも無い、三島は腕を撃った。まだ生きている、風前の灯だが、命の炎はまだ消えていない。
 片手で体を持ち上げた。膝立ちから、力の入る足と手で立ち上がる。まるで生まれたばかりの子馬のような覚束無い動き、だが立ち上がってみせた。限界だった。握り込む拳、恐怖に歪む三島の顔――銃弾が発射される。俺の胸を凶弾が貫く――臍下丹田に力を込める。全力で踏ん張れ――足に命令を出す。胸中で渦巻く感情が涙になって流れていた。最期まで俺は惨めだった。
「三島……俺は……維織に、用があるんだ……」
 血塊と共に吐き出される言葉。足を引き摺りながら、一歩ずつ維織へと歩み寄る。
「やめろ……来るな、化け物!!」
「失礼な、奴だ……俺は、ただ……」
 左拳を握り込む――一撃に、俺の命を乗せる。緩慢な動きで、ゆっくりと拳を振り被った。
「ただ、トチ狂っちまっただけだぜ」
 筋肉が唸る――振り抜いた。眉間に拳が突き刺さり、三島の細い躯体が吹き飛び小屋の壁を震わせた。強かに後頭部を打つ鈍い音と共に、くたりと三島はその場に崩れ落ちた。
 四人を気絶させた。命の消える前にやってのけた。雨水と泥と血にまみれながら、俺はやってのけた。
「維織……」
 呼びかけに応じたのか、薄らと目を開く。俺の姿を確認して、大きく見開かれた。
 俺は微笑みかけながら、そっと猿轡を外した。三島の懐からナイフを見つけ縄を切る、そこで俺の力は尽き、地面に仰向けに転がった。入れ替わるように、維織が俺の顔を上から覗き込んでいた。
「言いたい事が、あるんだ……」
「イタロー君、喋っちゃダメ……」
「いいんだ……これは、多分…… 報いなんだ……」
 維織を傷つけた罪。赦されるとは思っていなかった。この身が引き裂かれるならそれでも構わなかった。
 今の、俺の、願いは――
「維織……俺さ、やっと気付いたんだ」
「イタロー君……」
「君が……維織が、好きだ。誰よりも……愛、してる」
 月並みすぎる言葉だった。それほどまでに単純で、それでいて一番複雑な気持ちだった。
 ぽたぽたと、温かい何かが俺の頬に垂れていた。維織の涙だった。俺の為に泣いていた。それだけで、俺は満足だった。
「なあ……維織……」
 笑いかけた。頬の筋肉、痙攣しながらも笑おうとしていた。夢の俺がしていた、暖かな笑みだと思った。
「俺……さ、旅…… 続け、たいんだ」
 維織は俺を見ていた。驚いたような表情だった。
「ふたりで……もっと、いろんなところに……行っ、て。見せたい、ところ、が……あ、るん、だ」
 意識が混沌としていた。瞼が重たくなっていた。だが俺は、まだ見ていなかった。
「一緒に……いきたい、な……」
 俺が言いたいことは終わった。それと同時に、暗幕が下りてゆくように視界が閉じてゆく。限界だった。眠たかった。暗闇が俺を待っていた。帰るときがやってきた。
 最期まで、泥臭く――か。
 惨めだった。虫けらと何の変わりも無かった。だが、一つだけ胸を張れることがあった。
 命の炎が尽きる、最後の瞬間――、
 消えゆく意識の中で、俺は維織の笑顔を見たような気がした。
































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