俺の心は空虚だった。先の見えぬ真っ白な闇の中で俺は生きていた。
何を持ってしても満たすことの出来ない空洞。怒りも悲しみも、全てはどこかに置き忘れてしまっていた。
存在意義の無い日々。目的の無いまま歩く人生は苦痛でしかなかった。
それでも、死ぬことだけは許されず――その理由は、自分自身でも分からないまま。
俺は、気の遠くなるような空虚の中で生き続けていた。
満開の桜が立ち並んでいた。俺と武美は手をつなぎながらそこを歩いていた。
彼女が笑うと俺も嬉しくなって笑い返した。花びらがひとつ、彼女の鼻の頭にぽつんと落ちてきて、また笑いあった。
俺は空を見上げた。雲ひとつ無い空。太陽の光が阻まれることもなく降り注ぎ、俺は目を細めた。
分かれ道、二つに枝分かれていた。
「こっちだよ! 絶対こっちがいいってば!」
「いいや、長年の俺の勘がこっちだと言ってるんだ。だから、絶対こっちの道だ」
二人は額がくっつくほどの距離でムッと睨みあった。そしてぷっと吹き出し、また腹を抱えるほど笑った。
鶯の声が聞こえてきた。春の訪れ、そして平和を再認識させてくれる。
俺と武美はいつまでもその場所で笑いあっていた。
――もし、こうなっていたら――。
熱砂の眼睛
Original Wanderer
俺はゆっくりと目を開ける。そこに広がるのは広大な雪景色。そばには誰も居なかった。
武美と別れた後、俺は北へ進んでいた。道は白く、雪は最初はちらちらと降り注いでいたが、やがて容赦なく顔に襲い掛かる吹雪と化していた。
寒さに手が悴み息を吐きかけた。だが、痺れは一向に取れず俺は震えていた。
周りを見渡しても人っ子一人無かった。当然だ。そういう道を選んだのだから。
「またか……」
呟いた。いつも見る幻、これで何度目だろう。俺の記憶にない、架空の世界。永遠に訪れることのない、幸福の時間。
腹の虫が鳴き叫んだ。一週間前の木の実が最後だったか? もうそれすら思い出せなかった。
頭の芯まで凍ってしまったのだろうか。死ぬ寸前は走馬灯を見ると聞いたが、その気配すらなかった。
あるいは、もう見たのか? ここで朽ち果てるということか。――なら、もういい。
俺は雪に倒れこんだ。意外にも雪は暖かく、俺を慰める毛布のように感じた。
倒れたまま吹雪の中で幻を見た。またあの幻。俺と武美が仲良く手をつないで歩いていた。
否、それは本当の『俺』ではなかった。
俺はその二つの影を目で追っていくしかなかった。どんどん離れていく。思わず叫んだ。
「待ってくれ!」
だが、その影たちは声に気づくこともなく歩き続けた。弾けるような笑い声と共に、幻も消えていった。
俺は泣いた。誰に対して泣いているのだろう。自分に? 武美に? 違う。俺は泣くことでこの現実から逃げたかった。
再び人影を見た。それはゆっくりとこっちに近づいていた。俺はそこに手を伸ばした。
また、叫ぼうとしたが声すら出なかった。やがで視界がぐるぐると回り、俺の意識は闇へと消えた。
目が覚めると、俺は布団の中で寝ていた。全身は気だるく、なんだか熱っぽかった。
なんとか上半身だけ起き上がると部屋の全貌が見えてきた。四畳半のこじんまりとした部屋。
布団以外は何も無く、窓はカーテンが掛かっていた。とりあえずここから出ようとした。だが、熱が酷くなったのかふらつき、同じ場所に倒れこむ。布団から淡い花の香りがした。
上から声が聞こえてきた。どうやら倒れたままの体制で、うたた寝をしていたらしい。起き上がると二十歳前後と見れる女性の姿があった。
「大丈夫でしたか?」
柔らかい声だった。手には湯気の立ちこめる湯飲みを持っていた。
「よかったら。これをどうぞ」
俺は半ば奪うように湯のみを取った。そのお茶を一気に飲み干し、一息ついた。胸の近くがほんのり暖まったような気がした。
「ありがとう」
まずは礼を言った。だが俺はまだ状況を掴めていなかった。女性は手持ちぶたさそうに辺りを見渡している。
「君は誰だ」
「大宮 由佳里と言います。あなたの名前は?」
「あ、ああ。九堂 伊太郎だ、よろしく」
そう言って右手を差し出す。由佳里はその手を握り返した。彼女の手は少し冷たかった。
おおみや ゆかり。声に出さず口呟いたが、その名前に覚えはなかった。知り合いではないらしい。
「ここは、どこなんだ?」
「私の家ですが」
問答になっていなかった。俺は苦笑する。
「いやそうじゃなくて。俺はどうしてここにいるんだ」
「覚えていないんですか」
「ああ、全く」
由佳里はふぅんと呟いた。どことなく安心しているようにも残念そうにも見える複雑な表情だった。
「吹雪の中で倒れていたんです。それで、見過ごせなくてここまで運んできました」
記憶が蘇ってきた。同時にあの幻が頭をかすめ、また少し熱が出たような気がした。
「そうだったのか、本当にありがとう。おかげで助かったよ」
「いえ、どういたしまして。……それでちょっといいですか?」
彼女は立ち上がり、カーテンを開ける。目に映った景色は、俺が外を歩いてきた時よりも激しい猛吹雪だった。
「ご自宅はどちらで?」
「ない。天涯孤独の身だからな」
「何処かに行くあてとかはあるんですか」
「それもないな。目的もなくこの地まで来た」
「なんか変わった人ですね」
「気楽な旅ガラスだからな」
「ふふっ、旅ガラスですか。なんだか可笑しいですね」
いつのまにか饒舌になっていた。久しぶりの人との交流。やはり、俺はそれを望んでいたのだろう。自分の意思とは逆に口が動いた。
――それにしても、核心に全く触れていないな。
「それで、結局どういう話なんだ?」
「……あ、すいません。それであの、迷惑でなかったら一晩泊まっていただけませんか?」
「へ? は、話が飛躍過ぎてないか。どういうことだ」
「私が助かるんです」
――ますます、意味が分からない。
俺は彼女の顔を覗き込むようにして見た。だが、その瞳からは何も読み取ることができなかった。
「……まぁ、それでいいなら別にこっちに断る理由は無いな。命の恩人だし」
「ん、やっぱり可笑しい人ですね」
彼女はクスクスと笑った。俺は煮え切らない表情を浮かべた。
「ただの冗談だったってことか」
「いえ、そういうわけでじゃないんです。ええと、じゃあこの部屋を使ってください。私はちょっと用事があるので失礼します」
そう言うと彼女は部屋を後にした。俺は少しの熱っぽさに軽くため息を付いた。
「また、少し寝るか」
俺は布団に横たわった。寝つきが意外と良かったのかすぐに寝れそうだった。
夢を見る直前、空っぽの湯飲みがぽつんと一人でいることが何故か無性に気になった。
――夢はあの幻が舞台だった。一つ違うところはその主役は俺自身だったということだ。
武美と手をつないでいた。傍観者だった頃には感じなかった、肌のぬくもり。彼女が生きていた時を思い出してくれる。
夢なら覚めないでくれ――まさしく、言葉どおりのことを願った。
俺は彼女を抱きしめた。意味なんて存在しない。そんな事は分かっていた。
背徳、裏切りの思いが頭をよぎる。何故だろう。彼女は彼女だ。俺がそう思い込めばそれで済む筈だ。
「俺を、救ってくれ」
滑稽な言葉だった。だが、そんな台詞しか浮かんでこない。
彼女の顔を眺める。全く変わらない幸せそうな笑顔。声こそ発しないが間違いなく彼女だ。
――だから、早く――。
そう思ったが突然、彼女は砂の人形のように崩れていった。
俺は思わず後ろに退いた。いつの間にか手にはナイフを持っていた。
彼女の顔とは別の顔が砂の中から出てきた。顔は良く見えなかったが、憎悪に満ちていた。
――お前が、武美を。
俺は躊躇うことなくそれに向かって刃を突きたてた。その瞬間の悲鳴。断末魔の喘ぎ。――全て武美のそれだった。
砂は崩れていく、困惑に身を固まらせていた俺。そして最後に顔の正体が分かった時――俺は悲鳴を上げた。
嫌な目覚めだった。いつも夢はすぐ忘れているタチなのに、今日に限って頭にこびりつくように覚えていた。
「しかもこんな悪夢を、か」
熱は引いたようだが、また深いため息をついた。あの夢はなんだったんだ?
街の人を救っても、武美を助けることができなかった俺への自虐か?
あるいは、俺が殺したんだ、とでも言いたいのか。――いや、そんなことはない最善を尽くしたんだ。絶対に。
最後に見た顔が何故か思い出せなかった。椿だったか? 寺門だったか? 首を振る。思い出したくもなかった。
気休めに、武美の姿を思い浮かべようとする。だが、全く浮かんでこない。
思い出せるのは彼女の肌触り。あの最期の別れの記憶だけ――。
「助けられなかったのか、俺は」
気が付けば俺は涙を流していた。別れの時すら泣かなかった。だが、悲しみはその時から冷たい氷のように俺にのしかかっていたのだ。
ここへ来て、俺は一息ついて落ち着いてしまった。悲しみが徐々に溶けていき、一気に流れ出てしまった。
「こんなに脆かったのか?」
別れは何度も経験した。その時には感慨は生まれなかった。
だが、俺は武美と深く関わりすぎてしまった。
唐突に由佳里のことを思い出した。――もし、このままいけばまた、俺は同じ過ちを犯すんじゃないのか?
彼女の言葉は何かを隠していた。不用意に踏み込んではいけない何かが。
「やっぱり断ろう」
そこで俺は気づいた。彼女が戻ってきていない。寝てる間に来ていたのだろうか。
「どうでもいいか」
――とにかく泊まる話は断ろう。他の手段で恩返しができるかどうかを聞けばいい。
俺は部屋から出ることにした。
部屋から出てすぐ見える、向かいの部屋に由佳里は居た。
そばには布団があるのに、彼女は壁に寄りかかって寝ていた。どことなく疲れたような顔だった。
彼女が布団に入らない理由――簡単だ。既に先客がいるからだった。
布団の中には一人の老婦人が寝ていた。酷くやつれていて、顔色もよくなかった。時折、苦しそうに呻いている。
俺は由佳里に声をかけた。彼女は眠そうに目をこすっていたが、俺の姿を認めると慌てて起き上がった。
「すいません。つい寝てました」
「いや、こっちも寝てたから気にしなくていいよ」
「本当にすいません。あ、それより……やっぱり気になるんですか?」
はっと気づくがもう遅かった。俺はつい、老婦人の方に目線を向けていたのだ。
「母です」
由佳里は静かに淡白な声で言った。だが、顔にはこれ以上になく悲痛に満ちていた。
「医者には診せたのか」
「家は貧乏なんです。診せるお金もろくにありません」
俺は何も言わなかったが、同情の眼差しを向けていたのだろう。彼女は首を振って苦笑した。
「私が悪いんです、貧乏なのは。小さい頃、心臓に難病を患っていて、それを直すには三百万必要だったんです。それで母が、無理して、借金までして……」
「分かった。もういい」
「母は大分無理をしました。中学へ出たら働くと言ったんですが、母は頑なにそれを拒んで、結局私を大学まで進学させてくれました。だから借金もなかなか返せなくて、過労で、倒れました」
彼女は顔を俯かせ、声を震わせていた。畳張りの床がとめどなく零れるそれを吸い取っていた。
俺は心の中、ため息を付いていた。どうすればいいんだ。助けるべきなのか――馬鹿な。
さっき自分が決めたこと。二度と誰かとは関わらないほうがいい。自分はあまりに弱いから。
だが今、事情を聞いてしまった。邪険に無視してここを出るのが、果たして正しい選択と言えるのか?
――分からない。スッパリと決めることすら、俺はできなくなってしまった。
すすり泣きの声だけが場を支配している。何か言わなくてはいけないことは分かってた。だが何を――?
その時、ベルの音が鳴り響いた。
由佳里はびくりと体を振るわせた。目は見開かれ、恐怖におののいていた。
「どうしたんだ」
「……借金取りです」
「お金は用意してあるのか」
「利子の分だけなら、ありますけど」
「それだけじゃ満足できない連中なのか?」
「十年近くも利子払いだけだったんで、最近は少し苛立っているみたいです」
彼女は少し申し訳なさそうに笑いを浮かべた。
「それに今は、もう私しか動ける人はいませんし」
そういっている間にもベルはしつこく鳴り響いていた。
「とにかく、利子だけでも払って帰ってもらおう。俺が付いてってやるから」
「ありがとうございます。……すいません、本当に」
そのかわりこれっきりだぞ――とは言えなかった。俺はやはり、どうしようもないほどに弱かった。
ドアの前には卑俗な笑いを浮かべている男が居た。
俺の姿を認めると、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに持ち直し由佳里の方を向いてキシシと笑った。
「彼氏か?」
「いいえ、違います」
否定してくれた方がこの場合は助かる。――彼氏など言われた日には、引き返すことができなくなってしまうから。
男のほうは俺をジロジロと見始めた。品定めでもするようなその様子は不快だった。
「ま、何でもいっか。俺は塚本だ。どうぞよろしく」
手を差し出してきたがあしらった。塚本は不服そうな表情を浮かべた。だが再び、由佳里の方を向き直った。
「そんで話しに入るんだが、そろそろ借金を返してもらえませんかねえ」
「利子は払っています。もう少し待ってください、お金がないんです」
「こっちも今は不景気なんだ。早く金を返してもらわないと困るんだよ。それにな」
そこで言葉を止め、またキシシと笑った。
「体、売っちまえばすぐに返せるじゃねえか、お前なら」
彼女は下唇を少し噛み、そっぽを向いた。低俗な物言い。俺はここで殴りかかっても、おかしくない状況だった。
だがそんな時ですら、俺は一考での行動になっていた。損得勘定で物事を見るということ。自由人だった俺には、縁のない考えだったはずなのに。
「少なくとも、死にかけたババアと変な浮浪者のいるこの家よりはずっとマシなんじゃねえか」
俺は塚本に殴りかかった。長考の末の勝手な判断。あまりに遅い抵抗だ。
だが、それすら関係なかった。奴の右頬を狙っていた拳は、いとも簡単にかわされてしまったから。
「なんだ? 弱えな」
塚本が俺のみぞおちを殴ってきた。悶絶し、倒れこむ。呼吸ができない。涙がにじみ出てきた。
「ふう、ざまあみろだぜ。……ま、今日は利息だけもらって帰ってやるよ。そちらのゴミクズさんとも、せいぜい仲良くな」
ドアの閉まる音が聞こえた。由佳里が俺を支え上げてくれた。
「大丈夫ですか?」
何かに迷った声だった。助けてもらったとはいえ、こんな無様な方法にどんな礼を言えばいいのか、迷っているのだろう。
だから俺は何も言わなかった。ただ、自分の拳だけを見ていた。人一人守ることのできないそれ。あまりに小さかった。
「借金はいくらなんだ?」
「……四百万円、ですけど」
「分かった」
軽く息を吐いた。俺はきっとこの選択を後悔するだろう。だが、こうしなければ、どこにも行くことはできない。
「俺が何とかする」
外の吹雪は強く、まだ止む気配はなかった。
――これしか方法はないんだ。
何度目の呟きだったろう。待っている時間は異常に長く感じた。その間でも、俺の決意を理性が妨げようとしていた。
しばらくして、向こうから一つの人影が見えた。俺と同じ風来坊でかつての相棒。青と悪に身を包んだ男、椿だ。
「久しぶりだな。まさか、お前から連絡してくることがあるとは思わなかったぜ。やはり腐れ縁って奴なのか?」
「御託はいい。用件を話すぞ」
「おっと、冷たいね。ちょっとくらい落ち着かせろ」
椿は苦笑した。彼はタバコを取り出し、火をつける。
「で、まさか今更、俺に義に反する仕事をやめろとは言わねえよな」
「いいや」
言葉を止め、空を見上げた。昼頃にもかかわらず、昨日の曇天の名残か薄暗かった。
「逆だ。お前の仕事をこっちに紹介して欲しい」
「……へえ。どういう心境の変化かね。あれだけ俺の仕事を嫌ってたのにな」
俺はブギウギ商店街のことを思い出す。その時の自分の姿は今とかなりブレているように思えた。
「それを聞く必要は無いだろ。手数料は払う。だから早急に、大金を稼げる仕事を用意してくれないか」
「無いことは……ねえな。丁度断ろうとしていた仕事があった。俺じゃできないからな」
「どのくらい貰えるんだ?」
「危険だが、それに似合った報酬だ。これを見てみろ」
椿は懐から一枚の紙を差し出した。契約書の類らしい。
俺はそこに記された金額を見た。五桁の数字が並んだそれを。――足りないなこれでは。
憮然としながらも、仕事内容の欄に目を移した。俺は軽く眉をひそめた。
「サイボーグ同盟の討伐?」
「名前くらいは聞いたことがあるだろ、プロ野球界を震撼させた連中だからな」
「つまり、その残党を秘密裏に抹殺しろってことか」
「違うな、それはフェイクだ。本当の目的はそいつらを助けることにある」
「どういうことだ、それは」
「まず最初にその紙が来た。報酬は見てのとおりだ。サイボーグの討伐なんてのは、俺みたいなのに頼らなくてもいくらでも手はあるらしいからな」
軽く息を吐いた後、どんな方法かは知らないがな、と付け加えた。
「そんで、次にこの紙が来た」
椿は右ポケットからもう一枚似たような紙を出した。報酬は七桁だった。俺の目を見ると満足したように頷いた。
「ただ俺としては、このサイボーグ同盟には関わりたくない。だから断ろうとしていたんだ」
「そこに俺が来た。つまりこの仕事で、サイボーグを捕まえるフリをして救出しろって訳か」
「だいたいそんなところだ。成功すれば、報酬の八割はお前にくれてやるぜ」
――なるほど俺は囮って訳ね。
椿にとっては断るはずだった仕事。失敗してもデメリットはなく、成功すれば二割の報酬が手に入るわけだ。
俺にとっては正に一か八か。失敗は許されない。――それにしても、だ。
「サイボーグか……」
皮肉な縁だった。椿の煙草の煙は白い尾を引きながら上がり、空へと混ざっていた。
「それで、お前はこの仕事をやるのか」
「……当然だ」
椿は笑った。どこか白々しい笑顔。だが、何故かそこに懐かしさが込上げてきた。腐れ縁の言葉が頭の中、反復した。
「それじゃあ、久しぶりのコンビ復活といこうぜ、九堂!」
俺は椿に廃工場へと案内された。脆そうな外壁。蹴ってしまえば、すぐ崩れてしまいそうだった。
「ここなのか」
「そうだ。昔、サイボーグ同盟の一人がここでロボットを生産していたらしいぜ。……壊滅させられたみたいだけどな。その名残からここを拠点としているんだとよ」
「しかし、それじゃあすぐにばれるんじゃないか? 連中にだってすぐマークされたんだし」
「そこだよ。どうもその残党共は血の気が多いらしい。仕事を依頼してきたのはそのリーダーだ」
「残党もまとめられないリーダーか。頼りないな」
「そう言うな。魅力的な報酬があるんだからな。おっと、連中が潜んでいるぜ。ちょっと行って来る」
俺が目を凝らすと、廃工場を隠れるように視察している男があちこちに発見できた。
椿はそのうちの一人の男に何事か声をかけていた。そしてにやりと笑って俺のところへ戻ってきた。
「よし、裏の方へ回るぞ。連中もそこは手薄らしい」
かくして、そこへと足を運んだ。確かに、さっき見た場所よりも人の気配が少なかった。
「身は隠しておけよ。手薄とはいえ、監視されていることには変わりはないからな」
「分かった。……それでお前はここでトンズラか?」
「人聞きの悪いこと言うね。俺はこれから連中と接触して、情報を聞き出しておく。この携帯を渡すから、それをお前との通信手段にするぞ」
「了解だ。それじゃあ、行くとするか」
「健闘を祈るぜ。くたばっても骨はくらいなら拾ってやるからな」
「ついでに花も手向けてくれるとありがたいな」
椿の方から、押し殺したような笑い声が聞こえてきたが無視をした。俺はなるべく慎重に、屈みながら前へと進んでいった。
「お前が椿か?」
突然背後から声が聞こえ、立ち止まった。後ろを振り向くと男の姿があった。
「いや、だが椿の代理人だ。これがその証拠だ」
俺は例の紙を男に差し出した。彼は黙って俺と紙とを交互に凝視していた。しばらくして彼は理解したように頷いた。
「分かった、信用しよう。ここが入り口だ。音はたてるなよ」
地面だと思っていたそこに、隠し扉があった。どうやら地下から廃工場へと行くらしい。
――地下にも縁があるんだな。俺は失笑した。
廃工場はやはり相当に広かった。だが、その中にいる人数はかなり少なかった。さっきの男が、俺に挨拶をしてきた。
「俺がリーダーのマサルだ。よろしく」
「こちらこそ」
男は由佳里と同じ二十代辺りに見えた。サイボーグ同盟というから、外見もそれらしく見えるのかと思ったが、実際はそう変わりはなかった。
「ところで聞きたいことがある」
俺は気になっていたことを切り出した。
「なんだ?」
「たった、これだけの人数なのに、どうして連中はここを制圧しようとしないんだ」
「ああ……そういえば言ってなかったな」
そう言うとマサルは複雑な図面の書かれた紙を取り出した。
「設計図か、これは?」
「ああ、サイボーグを人間に戻すことのできる代物だ」
「……どういうことだ」
「そもそも、このメンバーはサイボーグ同盟から足を洗う為に集まった奴らなんだ」
「それは初耳だな」
「仲間にばれるのを恐れてのことだ、悪く思うな。話を戻すが、それには改造した体を元に戻さないといけない。だが、その手の専門家は簡単には見つからないし、万が一見つかったとしてもそこから足が着く可能性もある。そこでこいつの出番だ」
そう言って、マサルは機械を指差した。カプセル状になっていて、丁度人一人が入れそうな形だ。そこには液体が充満していて、培養器をイメージさせる。
「あれがそうなのか」
「ああ。それを使えば、サイボーグの体を元に戻すことが可能だ」
「本当に使えるのかそれは」
「どうしてだ? もしこれが使えなかったら今、俺はここにいないはずだろ」
「じゃあ。何故お前はサイボーグのままなんだ」
俺の見る限り、マサルは間違いなくサイボーグの手術を受けていた。まるで見せつけるかのごとく、手の甲には機械が埋め込まれていた。
「これか……」
彼はいとおしそうにその部分をなぞった。
「繋がりのようなものだからな、これは」
「どういうことだ」
「お前にはどうでもいい話だ。それより、話を戻そう。連中はこの機械と設計図が喉から手が出るほど欲しいらしい。正確にはこの機械の存在を闇へと葬るのが目的らしいがな」
「なるほど。サイボーグが簡単に人間に戻ったら、この先そいつらを見つけることが困難になるからか」
「ああ、そういうことだ」
その時、着信音がポケットの中、鳴り響いた。椿の携帯だ。
マサルの方を見る。彼は握りこぶしをを耳にくっつけ離すジェスチャーをした。電話を離して声を聞こえるようにして欲しいらしい。
「どうだ、そっちは」
着信ボタンを押すと、椿の押し殺したような声が聞こえた。
「リーダーと合流して今、廃工場の中にいる」
「よし、順調だな。こっちの方は大分痺れを切らしている。命令は現状維持だが、その内無視して攻め入りそうな勢いだぜ」
「おいおい、俺達を見殺しにする気か?」
椿は鼻で笑った。
「見殺しは見殺しだ。だが、忘れるな。あくまで依頼はリーダーの独断だ。血の気の多い奴らがたくさんいるんだろ、そこは。……後は分かるよな」
「リーダー、マサルだけを助けろってことか」
「そういうことだ」
椿が答える前にマサルが答えた。
「おっと、リーダーさんもいたのかい。他には聞かれてねえだろうな」
「大丈夫だ。それぐらいの配慮はしてある」
確かに、ここはちょうど壁の陰に隠れて人目につかない場所だった。
「よし。それじゃあ連中も十分に煽ったし、そろそろ」
電話が切れた。電波の調子が悪いらしい。
「あいつら、機械を勝手に使ってやがるな」
マサルは言うが早いか先ほどの機械の方をむいた。そこには、いつのまにか中には人が入っていた。
「その機械は、電波を狂わすほど強力なのか」
「試作品だからな。あいつらは実験台」
「……じゃあ、サイボーグ同盟の奴らのために使う気はないのか?」
「まあ、そうだな」
「だったら、お前は何に使うつもりなんだ」
「答える必要は無い。それより……」
マサルは人差し指を唇に当て、静かにしろと小声で呟いた。
「どうした」
「僅かだが音が聞こえる。連中が来そうだ」
「脱出方法は考えてあるのか」
「もちろん。ようは、あいつらの機械に対する、防衛心を利用すればいい」
マサルはポケットから変わった形の拳銃を取り出した。
「なんだ、それは」
「対サイボーグのための武器だよ」
悪戯っぽく笑うと、マサルは例の機械に向かって発砲する。
機械に穴が開き、液体が外へ逃げ出すかのように噴出した。周りのサイボーグたちが悲鳴を上げながら、必死に穴を塞ごうとする。
「おい、いいのか。大事な機械をぶっ壊しても」
「どうせ持っていけないからね」
そう言うと、マサルは見つからないように隠れながらも、続けて三発、再び発砲する。
今度はサイボーグ達に当たった。どれもいかつい、如何にも頑丈そうなガタイをしていたが、弾丸が貫いた瞬間、あっけなくそれらはバラバラになってしまった。
その時には、討伐隊も現れ始めた。それを見たサイボーグは機械が壊れかけているのと、仲間を失ったのとが重なり、まるで怒りに身を任せるかのように連中へと突っ込んでいった。
「さ、今のうちに逃げようか」
マサルはさっきの入り口とは別の道を用意していた。相当に用意周到な人物らしい。
「連中と仲間達は今頃、あの機械をめぐって争ってるだろうな」
そう言って、薄く笑うマサルに俺は少し恐怖を覚えた。
深夜、由佳里の家へと着いた時、俺は心から安堵した。身を切るような肌寒さすら、今は心地よく思える。
こんなに遅く帰ってきたことに由佳里は腹を立てていた。だが、目に見える傷は負っていなかったから、特に言及はされなかった。
今、俺の使っている部屋に腰を下ろした。既に布団が敷かれていることがとても嬉しかった。
毛布に今日もらった札束を乗せた。マサルにもらったそれは思ったより重かった。
「でも……まだ、足りないよな」
分かっていたことだ。たかだが一回の仕事だけではどうしようもない。再び俺は覚悟を決めるしかないのだ。
ふいに頭に武美の顔が浮かんだ。夢でもまた会えるだろうか。 ――とにかく、今の俺には彼女が必要だった。
「あの」
寝かけようとした俺は突然声を掛けられたことに驚いた。電気を付けると由佳里が立っていた。
「どうした」
「無理をしなくて、いいんですよ」
「……なんだって?」
「九堂さん言いましたよね。なんとかするって。でも、私はそこまで無理して頑張らなくていいと思っています」
「……ただ飯喰らいの俺が何もしないわけにはいかないだろ」
「ええっと、だからそうではなくてですね。普通にして欲しいんです。こんなに遅くまで帰ってこないのってやっぱりおかしい……です」
「大丈夫だ、心配しなくいい」
俺はきっぱりと言い切った。
「借金は返せる。大学もちゃんと通える。それで由佳里も満足だろ? ……それにこれは俺のためでもあるんだ。分かってくれ」
由佳里はまだ何か言おうとしたが、諦めたのか黙って部屋から出て行った。俺はそれを見送った後、布団に横になった。
二度あることは三度ある、とはよく言ったものだ。俺は再び同じ場所の夢を見ることができた。
桜の木を尻目に俺は武美を探す――見つけた。手を伸ばせば届く距離ほどではないが、近くに彼女はいた。
俺は彼女の元へ駆け出した。だが後一歩で、彼女に手を触れられそうなぎりぎりの位置で、俺は動けなくなってしまった。
「なんでだよ」
悲痛に満ちた自分の声がよけいに苦しい。なぜ、届かない。
だが、武美の顔だけならここだとはっきり見えた。――表情のない、冷たい顔をしていたが。
声を掛けたい。だが、なにを話そう。「俺は悪事に手を貸しました」とでも? 俺は笑いながらうつむく。目から涙が一粒ぽたりと落ちてくる。
「ごめんね」
俺は顔をあげた。それは武美の声だった。鮮明な記憶の、確かなもの。
「ごめん」
「何に謝っているんだ? 武美」
俺は問いかける。だが、彼女はまた「ごめん」と呟くだけだった。
耐え切れなくなり、俺は再び手を伸ばす。だが、やはり彼女に指一本触れられることもなく――俺の視界が揺らいだ。
ある早朝、時計のアラームよりも早く目覚めた。窓を開けると外は快晴だった。
朝食を一人で軽く済ませた俺は、仕事をするために出かけた。
半溶けの雪がシャリシャリと音をたてる。太陽の光に反射する、氷の粒がとても眩しかった。
歩きながら考える。あの時見た夢はなんだったのか、それは自分の事ながら計り知れなかった。
ただ、俺は武美を――たとえ亡霊でも夢でも求めていることだけは分かる。
家から出て間もないうちに、俺は意外な人物を見つけた。
「マサル……?」
マサルは自動販売機で飲み物を買っていた。俺が近づくと、彼は振り向き「よぉ、この前はどうもな」と最初会った時よりは割かし明るい調子で話しかけてきた。
「どうしたんだ。わざわざこんな所まで来て、何か用でもあるのか」
「嫌、ちょっとな……」
マサルは煮え切らない返事をした。
「ところで、お前はこの近くに住んでいるのか」
「そうだが?」
「大宮由佳里を知っているか。この近所に住んでいるはずなんだが」
「ああ、知っているよ」
俺は肩をすくめながら続けた。
「今、俺と住んでいるからな」
マサルは酷く驚いたような顔でこちらを見た――がすぐにすました表情に戻した。
「そうか、分かった」
自動販売機から飲み物の落ちるガゴンという音が聞こえた。
マサルは指を少しくわえ、考えるような動作を取り――「おごってやるよ」とお金を入れて『つめた〜い』とラベルのある缶のボタンを押した。
またガゴンと音が聞こえ、マサルは缶をこちらに強く放り投げた。俺は両手で受け止めたが冷たさに手が痺れる。
「じゃあな、九堂」
「……場所は聞かなくていいのか?」
「あまり、俺を舐めるなよ」
そう言うとマサルは立ち去った。俺はまた肩をすくめる。
見渡すと、ゴミ箱はすぐ見つかった。軽くモーションをとり、それに向かって投げた。缶は弧を描いてゴミ箱にストンと入った。
――野球の実力ももう、こんなところでしか使えないんだろうな
俺は仕事へと向かった。野球のようなルールもない無法地帯へと。
「これじゃあ足りないな」
塚本の言葉に俺は思わず身を乗り出した。
「何故だ! ちゃんと四百万はここに用意したじゃないか」
怒りを抑えきれずに机に拳を叩きつけた。周囲がこちらを見始める。
「落ち着けって。店の中なんだからマナーぐらい守れよ、な」
「だったら、早く答えろ。どうして足りないんだ。ここまで貯めるのに俺は……」
そこまで言って俺は口をつぐんだ。変わりに自分の顔を撫でた。
顔は勿論、全身に及ぶおびただしい量の傷跡。塚本が指定してきたこの喫茶店に入った時に、俺を見た店員のこわばった顔を思い出す。
最初の依頼の後も、俺は次々に休むことなく仕事を続けていった。――よく生きてこられたと自分の事ながら思う。
「悪いが俺の仕事は、言われたとおりの金をきちんと回収することだけなんだ。詳しいことは分からない」
「じゃあ、いくら払えばいいんだよ。それなら分かるんだろ」
「ああ。後、六百万円だとよ」
ふざけるな――と叫びたかったが、周りは明らかにこちらを邪魔としていたし、店の方もいつのまにか店長と思わしき人が姿を見せていた。
「とりあえず、ここから出るぞ」
「はぁー、せっかちだね。まだスパ、半分も残ってんだけど」
「いいから行くぞ。金は払うから」
「太っ腹だねー。そんなんでいいのぉ?」
俺は無視してレジへ向かった。塚本の『半分も残ってる』という言葉を耳に残しながら。
俺が帰宅したとき明かりは付いていなかった。
「由佳里――?」
呼びかけるが声はない。俺は眉をしかめた。彼女の母親の看病のために、俺と由佳里で家を空けないような時間を決めていたのに。
俺は母親の元へと行った。その部屋だけは明かりをつけっぱなしだった。
枕元にはお粥のコメが数粒引っ付いた鍋。その中にはレンゲが入っていた。その隣には錠剤とコップがあった。
俺は母親の方へ目線を移す。布団は全く乱れておらず、寝顔も穏やかだった。
――少なくとも、お粥は食べさせてあげていたわけか。
軽く安堵するが、それも束の間。胸にこみ上げてくるのはやるせない怒りだった。
「……洗うか」
俺は鍋を持ち上げ、のろのろと台所へと向かった。水と洗剤を使って洗い始める。その水の音を聞きながら俺は塚本の話を思い出す。
――なぁ、お前だって分かってんだろ? 本当に怒るべきは俺じゃない。違う?
――まさかとは思うが、お金に足が生えて勝手に逃げ出したって言うんじゃねえだろうな。
――ん? 他人が成りすましてもないぞ。何せ俺が本人と直に会ってその話をしたんだからな。
――だからさぁ、いい加減に理解しろって。お前は――。
パリンと物が割れる音で俺は我に返る。コップを落としてしまった。慌てて拾おうとしたら欠けたガラスに手を切った。
痛みと共に血が零れる。それに呼応するように全身の傷が疼いていく。俺は血をふき取るのも忘れてぎゅっと目をつぶった。
だが、脳裏に彼女の声も姿も現れることはなかった。俺は目を開け、引きつった笑いを浮かべた。
扉の空く音がした。呼び鈴は鳴らさなかったが、そこまで耳は悪くない。俺は由佳里を迎えに玄関へと向かった。
「ただいま……」
俺の姿を見て由佳里は驚いていた。本当なら今日は、俺は早朝まで帰ってくることはないからだ。
「どうしたんですか。今日はやけに早いですね」
その言葉を俺は片手で制す。
「由佳里。まず、俺に話すことがあるんじゃないのか」
「……」
「なんで、一人で勝手に出歩いたんだ。母親を残してまで」
「それは……」
「もうひとつあるぞ。お前、また塚本から金を借りたのか?」
由佳里は押し黙り、俯いた。
「なあ。なんで、そんなことをしたんだ」
「母のためです」
「……どういうことだ?」
「母はもう長くないです。私でも日に日に衰えているのが分かります。全部私のために……それなのに、私は母に何もすることができませんでした。だから、母をどうしても救いたいんです。そのためにお金が要るんです。だから――」
手が痺れた。困惑が残った。自分の行動にも、妙に残る手の痛みに対しても。
由佳里は叩かれた左頬を、手で押さえながら俺を見上げていた。
「由佳里、お前が本当にそう思っているのならなんで、母を置いていくようなまねをするんだ。それは本末転倒じゃないのか。衰えてるのが分かるのに急変する可能性は考えてなかったのか」
自分でも冷めた声だと思った。軽く深呼吸して続ける。
「それに、母のためのお金なら入院費用に使うはずだろ。本当は何のためのお金なんだ?」
「……」
「ま、いいか。なんであれもう使っちゃったんだろうし。ただこれだけは言わせてもらうぞ。……もし俺がいなくなったらどうするんだ。そのことをちゃんと考えているのか?」
俺はじゃあおやすみと由佳里の答えを聞かずに自室へと戻った。そのまま布団もかけずに寝そべる。
「本末転倒か。……俺が言う台詞じゃないよな」
俺はまた自嘲の笑いを見せた。
翌朝、俺は目が覚める。起き上がると由佳里がそばで座っていた。
「……いつから、ここにいたんだ?」
「ちょっと早く目が覚めて……九堂さんを起こそうと思ったんですが、ぐっすり寝てたので悪いのかなと思って、起きるのを待ってました」
――多分、それは嘘だな。
自分では気づかないようだが由佳里の目元には隈ができていた。少し、顔色も悪い。
俺が寝てからずっと起きてて、ここにいたのだろう。
「なぁ……由佳里。お前は誰にお金を渡していたんだ?」
「……」
由佳里はまた俯く。
「俺にはそれを聞く権利くらいはあるんじゃないのか」
彼女は躊躇うような様子だったが、やがてぼそぼそとある人物の名前とそれに関する話を告げた。
俺は目を瞑って話を聞き続ける。――布団に横になった時から由佳里の話は予想が付いていたが。
「分かった、ありがとう」
俺は立ち上がった。身支度を整える。
「出かけてくる」
――ここまできたら、頼る相手は一人しかいない。
彼女は話が終わったあとも俯いたままだった。だが、俺が部屋から出るとき声が聞こえた。
「ごめんなさい」
その言葉に足を止め、俺もまた目を瞑る。暗闇の遠くで、季節外れの桜の花が見えた――ような気がした。
「……本当にいいんだろうな、九堂」
「何度も言わせるな。これでいいんだ」
俺は古ぼけた手術台の上で寝ていた。そばには憮然とした顔の椿と、白衣を着た医者がいる。
「一度でも体を弄っちまったら、そう簡単には戻れないんだぞ。その前に生きていられるどうか……」
「だから分かってる。覚悟もできた。それより――」
俺は近くにある机を見る。そこには『調査書』と書かれた封筒と、『契約書』と書かれた紙が置いてあるはずだ。
「ああ大丈夫だ、そのことならなんとかしてやる。……始めるぞ」
椿が医者に目を配せる。医者は頷くと、注射器を取り出し俺に向かって歩み寄ってくる。
今は全てを任せて、思い出に身を委ねようと思った――俺はもう人間ではなくなるから。
「では、これからサイボーグ化手術を始めます」
医者の几帳面な言葉を聞きながら俺の意識は薄くなっていった。
とある一角のビル。金融業を営む会社だ。
目的はただ一つだった。由佳里はここでお金を借りていた。そして同時にケリをつけなければならない奴がいる。
「何なんだ、アンタ」
入り口近くにいた男が声を掛けてきた。だが、それを無視し、相手を殴り飛ばした。
周りが唖然とした様子でこちらを見ていたがその刹那、いち早く反応した一人が俺にナイフを向けてきた。
俺はそいつに応戦する。刃が俺のわき腹に刺さった。――驚いていたのは相手のほうだった。
「悪いな」
回し蹴りを相手の顎にぶつけた。ゴキっと鈍い音が聞こえる。
「こちとら、もう人の子じゃないんでね」
刺された部分を擦る。人の肌とは違う無機質な感触だった。
銃声が耳に響いた。俺はその銃弾を反射的にかわすことができる。限界まで上げた身体能力。――体がどこまで持つのかは不安だったが。
だから言った。「死にたくなかったら、どきな」
拳銃をぶっ放した奴が血相変えてさっとどくと、他の連中もそれに習った。
針は確実に刻み始めた。もう後戻りもできない――したくもない。運命の時に身を委ねるだけだ。
俺は駆け出した。あいつは奥にいるだろう、会わなければならない。そう思った時、あいつの言葉がふっと頭をよぎった。
『――繋がりのようなものだからな、これは』
「久しぶりだな」
俺の顔を見たあいつは特に驚いた様子もなく話しかけてきた。
――もちろん、俺も由佳里から既に聞いたことだから驚きはないのだが。
「ああ、会いたかったぜ。マサル」
マサルは薄く笑っていた――手には拳銃が握られていたが。
「話したいことがある、いいか?」
「ああ、別に構わないぜ」
マサルは銃を構えたまま答えた。
「お前は反乱軍のボスだと言ってたよな。……だが、本当は違うんだろ。あくまで、あの機械を提供する為に来ただけで、こちらに依頼してきたボスとは違う、そうだろ?」
俺は椿の調査票の内容を思い出しながら、一気にまくし立てた。マサルは含み笑いを答えとした。だけど、と俺は続ける。
「だけどまさか、お前の正体が由佳里家が金を借りていた、金融会社の社長だとは思わなかったよ」
「……まあ正確に言えば、由佳里の母が寝たきりになったとこからなんだけどな」
「金を塚本経由で貸して、その癖、由佳里に取り入ってお前は母を治す為だとか言って金をもらっていた訳か。たいしたもんだよ」
「……言っておくが、由佳里の母を救うと言う話は嘘じゃない。サイボーグ手術をして、例の機械で人間に戻すんだ」
「ほおー。そのために、由佳里を不幸にさせても平気なわけか?」
「言っておくがな」
そう呟くとふいにマサルは、俺に発砲してきた。また避けようとする――が、マサルはその隙を突いてこっちに向かって来た。
「俺は由佳里を愛しているんだ」
俺はマサルに組み伏せられ、両手で首根っこを掴まれた。まだ本気で力を加えてなさそうだが、声がくぐもった。
「お前……まえに、サイボーグである、自分を繋がりとか言ってた、よな」
「そういえば、そんなことも言ったな」
「その、繋がりって言う、のはもしかして……」
首の掴み方が強くなった気がしたが、構わず続けた。
「それは由佳里の、ことなのか」
僅かな沈黙。だが、すぐに彼は頷いた。
「ああ、そうだ」
「由佳里は病気を治すためにサイボーグにさせられたのか」
「俺も昔はよく分からなかったがな。それより」
マサルはふぅと一息つく。だが、腕の力は弱まることはなかった。
「お前もそこまで気づいたなら、理解しろよ。これは由佳里を助ける為でもあるんだ。……一体、お前の目的はなんなんだ?
ただの自己満足なら、もう彼女に関わるな。そんなんじゃ誰も救えない。俺はな――」
「おい、マサル」
話を続けようとしたマサルを俺は制す。
「なんで、遠まわしに、俺に言う? 彼女が好きなんだろ? 愛しているんだろ? ならどうして面と向かって言わない。……怖いんだろ」
結局、とまで言った時にはマサルの顔は鬼面と化し、怒りの所為か唇が震えていた。腕の力も更に強まる。
「結局、お前のやってることも自己満足なんだよ。そっくりそのまま、俺に言った言葉を返してやるよ」
マサルは右手で腰に付けていた拳銃を抜こうとする。俺はその一瞬を逃さなかった。
俺は一気に力を込めて腕を払いのけ起き上がった。
マサルに殴りかかろうとしたが左手で受け止められる。ニヤリと彼は笑って銃を構えた。俺は左腕をそこへ向かって伸ばした。
鼓膜(そんなものがあるのかは分からないが)を揺るがすほどの爆発音が響いた。
俺の左半分は吹っ飛んでいた――もちろん近くにあった銃を持ったマサルの右手も。
痛みにマサルは僅かな悲鳴を上げるが、すぐに拳銃を爆風で無くなったことに気づき周りを見渡す。
そして、お目当てのものは見つかるが、マサルの顔は絶望と悔しさに歪んだ。俺は拳銃の撃鉄を上げた。
「畜生」
マサルは悪態をつきつつも、諦めたのか俺を睨むだけで抵抗しようとしなかった。
――武美。
何が正しいのか分からない。撃てばいいのか、すべきではないのか。
――いや、それすらもいらない。
一言、もう一度声が聞きたい。
――姿だけでも――
ふいに、音が聞こえる。蚊の鳴くような小さなそれが確かに――だが、俺はため息を付いた。
雨がぽたりと落ちる。自分の瞳から? いや、サイボーグは涙を流せない。灼熱のように、干上がった瞳だ。
水滴を拭えば、それはただの壊れた部分から流れるオイルだった。
「……」
俺は引き金を引いた。カチリ、と頼りない音が響いた。不発弾だ。
マサルは隙ありと俺に反撃してくる。俺はもはや抵抗などしなかった。マサルが銃を拾う。
――歓喜に酔いしれた声。
――勝利を宣言している。
――もう、すべてがどうでもいい。
もうひとつ仕掛けた爆弾を起爆させようとする。その瞬間に頭の中で銃声が轟いた。
エピローグ