店の前に『臨時休業』と書かれたプレートが出されている、無人の喫茶店。マスターもいない小さな店内を、夏目准は一人所狭しと駆け回っていた。
「はぁ……」
ふと作業の手を休めると、小さく溜息を漏らす。見回した店内は、金銀色とりどりのモールや星飾りで鮮やかにメイクアップされていた。全て、明後日に迫ったクリスマスの為だ。
クリスマスパーティをしようぜ――九堂伊太郎の提案。ジャッジメントとのゴタゴタももうすぐ決着が付く。そうすれば、彼がこの町にいる理由は無くなる。だから、最後にみんなで思い出に残ることをしよう。准は二つ返事で賛成した。
「でも、なんで私が一人で準備しなくちゃいけないのよ」
伊太郎がマスターにパーティの件を伝えた。マスターは穏やかに微笑んで了承してくれた。準備には念を入れなくてはね、と当日を含め三日間を貸切にしてくれた。それが一週間前の話――それ以来、伊太郎は喫茶店に姿を見せていない。マスターには料理を担当してもらうため、仕方なく准は一人で店内の飾り付けをしていた。
今度、コーヒーに何を混ぜてやろうか――コーヒーを噴き出し咽る姿を想像しながら溜飲を下げる。同時に、胸がキュッと締め付けられるように痛んだ。
カウンターの内側にある、客席からは見えない日捲りカレンダーに目をやる。日付は十二月の半ばで止まっていた。捲る役はマスターではなく准だった。捲るたび伊太郎と別れる日が近付くと考えると、自然とその行為は疎遠になっていた。
いつも伊太郎が座る席を見る。その前に座る維織の姿も、最近は見かけていない。二人でどこか出かけたりしているのだろうか――また、胸が痛む。今度は針で刺されたかのような鋭い痛みだった。
恋煩い、自分でも信じ難かった。
いつからだろう、こんなに彼の事を意識するようになったのは。出会いから今まで、ロマンチックな事なんて一度も無かったというのに。
愛想は決して良くない。態度は厚かましいし図々しい。おまけに素寒貧と、惹かれるところなんて何一つとしてない――見た目はそこまで悪くないかな、と准は思っていたが。
伝えたい気持ちがある。だが、ロマンとは程遠い騒がしい日々と、もうすぐ伊太郎がいなくなってしまうという寂寥感が行動に至るのを妨げている。心のどこかに、この思いを自己完結させようとする自分がいた。
時間が止まることを望んだ。だが少女の願いなど届くことも無く、無常にも別れの日は近付いてゆく。今はただ、精一杯目を背けているだけに過ぎなかった。
伊太郎の特等席、今は無人の椅子をそっと撫で、座った。窓から空が覗ける、この店で一番いい景色が見れる席。束縛されるのが嫌いな伊太郎は、この席に好んで座り、よくぼんやりと空を眺めていた。同じように窓の外を見ると、寂しさを助長するようなオレンジ色の空が広がっていた。
暗くなる時間。別れの時間――ぽつりと、口から言葉が漏れ出た。
「そろそろ、諦めなきゃダメなんだよね」
人の願いなど無視して流れ続ける時間への、ささやかな抵抗。カレンダーを止めて、せめて自分の中だけでは時間を止めていたかった。
だが、それももう終わりだ。
自分を元気付けるように、軽く頬を叩いた。そしてカウンター裏へと駆け込み、カレンダーの前に立つ。今日までの分を掴んだ。胸がズキズキと痛む――でも、時間を動かさなくてはいけない。
その時、店内の一角に鎮座していた大きな振り子時計が低く鳴り響いた。どきりと、心臓が大きく脈打つ。准はカレンダーに手をかけたまま、しばらく呆然と時計を見ていた。
カランコロンと来客を知らせる鈴が鳴る。はっと我に返ると、准は営業用のスマイルを作り上げた。
「申し訳ございません、ご主人様。本日当店は――」
「よぉ、准。いい感じになってるな」
『臨時休業』のプレートを無視して入ってきた図々しい男が、片手を挙げて満足そうに店内を見回していた。営業用の思考回路が一気に崩れる。パニックになったかのように、准は慌てて赤く火照った顔を傍にあったトレイで隠した。
「イタローさん! ど、どうしたの?」
「様子見だ。准が仕事をサボってないか確認に来た」
「サボって……って、そもそも提案したのはアンタよね?」
「そうだったな。でも、メイドはご主人様の為に働くもんだろ?」
悪びれた様子無く、屈託の無い笑みを浮かべる伊太郎。いつもならば反撃の手法が思い浮かぶのに、今日に限って言い返す言葉が何も思いつかず、准は金魚のように口をパクパクと動かすことしかできなかった。
伊太郎も違和感を覚えたのか、小首を傾げ髪を掻くと、気を取り直すように一つ咳払いをした。
「まあ、それは冗談として。ほれ、プレゼントだ」
いつもの一張羅、マントの下から伸びた手の上に、淡い水色のマフラーが乗っていた。准がぽかんと口を開けたまま動けずにいると、伊太郎は拗ねたように唇を尖らせた。
「なんだよ、その顔。確かにあんまり上手くはできなかったけどな、ちゃんと温かいんだぜ、これ――ほれ」
「あ――」
マフラーが首に巻かれる。近くで見ると、言葉通りヘタクソなのが一目瞭然だった。
「あったかい……」
「だろ? 苦労したんだぜ。貴子ちゃんのお父さんに給料前借りして、維織さんにやたら高い毛糸を買ってもらって、奈津姫さんに作り方教わって――まさか一週間もかかるとは思わなかったからな。野球の練習もサボったし、権田に怒られなけりゃいいんだけど」
「で、でも、どうして?」
「ん? そりゃ、これから寒くなるからな。マフラーじゃダメだったか?」
ブンブンと首を横に振る。聞きたいことはそうではなかった。
「そうじゃなくて、どうして私に、ってこと」
「そりゃ、今日は准の誕生日だからだろ。違ったっけ?」
数日前で止まったままのカレンダーを見る。クリスマスが明後日――今日は二十三日。自分でも、すっかり失念していた。
「合ってる……じゃ、じゃあ、これって誕生日プレゼント?」
「そういうことだな。大事にしろよ、俺の一週間」
ふてぶてしい伊太郎の台詞――本当に厚かましいと思った。だが同時に、胸の中を何とも形容しがたい感情が満たしてゆくのを感じた。
なんてことだ、私が自分の時間を止めている間に、この人は一週間も先のことをずっと考えていたのだ――その事を考えると、准は今までずっとくよくよしていた自分がとてもバカらしく思えた。
マフラーに顔を埋めた。毛糸の温もり、彼の温もり。嬉しくてにやけてしまう顔を隠した。
「ありがと――イタローさん」
「おう。にしても、今日の准はやけに素直だな。ちょっと不気味だぞ」
「と・こ・ろ・で。可愛いメイド一人に準備を任せてくれたお礼に、明後日はスペシャルなコーヒーを淹れるから楽しみにしててくださいね、ご主人様っ」
照れ隠し、抑え切れない喜びが自然と気分を高揚させる。
やっぱりかと肩を落とす伊太郎を尻目に、准は止まったままのカレンダーを一気に数枚破り捨てた。日にちは二日進み、早くもクリスマスになってしまった。
ペロリと舌を出し、すぐに思い直す――これはこれでいいじゃないか。
「ね、イタローさん」
「なんだよ……」
「パーティの後さ、ちょっと時間もらってもいいかな?」
「時間? 別にいいけど、何する気だ。まさか、暗殺――」
「違うわよ。コ・ク・ハ・クっ」
敢えて正直に言った。今度は伊太郎がぽかんと口を開ける番だった。「覚悟しててよね」と耳元で囁くと、准は途中だった飾り付けに戻った。
「コクハク――告白? ちょっと待て、何を告白する気だこの暗黒メイドっ。お前が言うと告発のような気がしてならないぞ」
「それはお楽しみでーす。そんなことより、手伝ってよイタローさん」
「あ、ああ……そうだな」
腑に落ちない表情のまま、伊太郎が近寄ってくる。
ささやかな仕返しだ。私が悩んだ一週間と同じように、イタローさんにも悩んでもらおう。
動き出した時間の中で、准は悪戯っぽく微笑んだ。
了