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「――と言う事は、二人とも当たったのか」
「なんか、あんまり感動が無いのね。翔一さん」
 卵焼きをつつきながら、素っ気無く返事をする翔一に、ヒナコが恨みがましい視線を向けた。フォローの代わりに、卵焼きを頬張り「美味い」と言ってみる。ぷぅ、と膨れたヒナコの表情が見えた。
「いや、内心は凄く嬉しい」
「ホントに?」
「ああ。だがサイボーグはハードボイルドと相場が決まっているからな」
「翔一さん、今は人間でしょ」
「そうだったな」
 適当に受け答えをしながら、ヒナコの作った典型的な和食をどんどん口に運んでゆく。真面目に答えないのは、ヒナコの料理がおいしいから、だけでは無かった。翔一としては、平凡でもいいから、二人きりでのんびりと過ごせればあとはどうでもよかったのだ。これが無愛想な彼なりの、精一杯の反抗だった。
 少女、黙々と焼き魚を解す彼を不満げに見つめながらも、気を取り直して自分も朝食をとることにした。既に、半分以上のおかずがちゃぶ台の上からなくなっているが、少女は特に気に留めた様子も無く、いただきます、と可愛らしく言った。昆布出汁の味噌汁を啜り、穏やかに微笑む。
 一見倦怠期の恋人のようにも見える、この二人の関係は、概ね良好である。というより、猛が想像した通り、ラブラブという言葉が相応しい。翔一のマイペースさを、ヒナコが持ち前の面倒見の良さでカバーする、実にお似合いのカップルだった。今、二人が食事をしている部屋は元々亀田の部屋だったのに、二人の熱愛っぷりにやられた亀田が、逃げるように引っ越したという話もあるのだが、ここでは割愛させていただく。
 やがて卓上の皿を全て空にした翔一は、名残惜しそうに口に残った最後の卵焼きを咀嚼した。ほとんど通常と変化の無いように見える、翔一の満足げな表情を、ヒナコは穏やかな微笑みと共に眺めていた。
「ごちそうさん。今日もヒナコの飯は最高だな」
「ふふ、お粗末さまでした。煽てても何もでないわよ、翔一さん」
 くすくすと笑いながら片付けを始めるヒナコを、翔一は壁にもたれかかりながら眺めていた。幸せな、日常の欠片。一時は唐沢博士失踪のショックで塞ぎこんでいた少女も、今ではすっかり元の明るさを取り戻していた。あの、生きる為に奔走した日々が遠のいてゆく。サイボーグとして、プロペラ団と闘った三年間。全ての問題が解決した今は、あのころに比べれば遥かに味気無く、平凡なものかもしれない。だが、翔一にはそれがとても愛おしく思えた。
 かちゃかちゃと、食器が擦れる音に混じって少女の鼻歌が聞こえる。いつになく、上機嫌なようだった。ゆったりとしたリズムに身を委ねていると、まどろみがゆっくりと訪れてくる。冬の穏やかな日差しが、窓から差し込んで翔一の体を優しく包んでいた。
「食っちゃ寝か。まるで猫だな」
 でも、そういう日常もいいかもしれない――
 翔一は、ゆっくりと目を閉じると、やがて静かに寝息をたて始めた。











「――起きてよ、翔一さん。ねえってば」
 瞼の向こうで、声がした。壁に寄りかかっていたはずの後頭部は、何か柔らかいものの上にある。双眸を開いた先には、困ったような顔で翔一を見下ろすヒナコの顔が目の前にあった。
「膝枕、してくれたのか」
「え? ――うん、壁にもたれかかったままじゃ、辛そうだったから」
「そうか。確かに、この方がいい」
 すっぽりと、頭全体が包まれた感覚。甘いミルクのようなヒナコの香りが、鼻腔をくすぐる。このまま、ずっと寝ていたくなる。
「というわけで、もう少し、俺の枕でいてくれ」
「何が『というわけ』か分からないんだけど……ダメ。わたし、これからバイトなの」
「そんなものはサボってしまえ」
「無理だよ、店長に怒られちゃう」
「ああ。そのときは俺が代わりに店長を叱ってやる」
「もう……また今度、してあげるから。ね?」
 段々と、ヒナコの声が諭すようなものに変化するのを聞きながら、渋々といった様子で体を反転させる。膝から頭が落ち、固めの畳にぶつかる。藺草の香りは、とてもヒナコの匂いと比較する気にはならなかった。
「翔一さん。今日は用事、無いの?」
「無いな。ぼんやりと一日過ごすつもりだ」
 そう返すと、ヒナコの表情がパッと明るくなった。プロの野球選手である翔一は、基本的には多忙な日々を送っている。今日のようにのんびりとしているのは、かなり稀なケースだった。
「じゃあ、晩御飯何が食べたい?」
「ん……じゃあ、フランス料理のフルコース」
「そんなの、作れないよ」
「寿司」
「それも、わたしが作るものじゃ無いでしょ」
「じゃあ、ヒナコ」
「うん、それなら――って、え?」
 呟いた途端に、少女の顔が耳まで真っ赤に染まる。その変化がたまらなく可笑しくて、堪えきれず破顔した。ヒナコ、冗談だと気付き、さらに顔を赤くして、どんどんと足音をたてながら玄関へと歩き出した。
 その背に向けて、笑いを含んだ声を投げかける。
「冗談だ。カレーが食いたい、いつも通りの甘いヤツな」
 扉を開け、飛び出そうとしたヒナコの足が止まり、くるりと反転する。少女は、屈託の無い笑みで、舌を出しながら答えた。
「ふん、だ。翔一さんには、すっごく辛いカレーを作っちゃうから!」
「俺は、辛いのは――」
「いってきまーす!」
 翔一の返事を待たずに、少女の元気の良い声が扉の閉まる音と共に残った。一人残された部屋で舌打ちをすると、すぐに口の端を吊り上げ、手を頭の後ろで組み寝転がった。
 こんな日々が、いつまでも続けばいいのに。
 ゆるゆると流れる雲を眺めながら、翔一は真摯に願った。











 河川敷のあぜ道を走る。額にびっしりとかいた玉のような汗を、通り過ぎる冷たい風が拭ってゆく。視界の左手では、町並みが規則正しいリズムで流れ、右手では朝日に煌く川が静謐を湛えていた。朝、十分ほどのランニング。これが猛の日課だった。プロたるもの、体調は常にベストコンディションにするため、ランニングは欠かさずするべし。翔一の忠言、一日たりとも忘れることは無い。
 終わりの目印にしている橋に差し掛かる。速度を徐々に緩め、息を整えてゆく。全身から汗が噴き出しているのを感じる。身を包んだジャージが酷くべたついて不快だった。首にかけたタオルで、とりあえず額の汗を拭う。欄干にもたれかかり、心地よい冷風を目を瞑り浴びていると、不意に人の気配を察した。
「七瀬君。久し振りだね」
「霧島さん」
 霧島玲奈。高校時代の知り合い。友達。脳の隅に追いやっていた情報を次々に構築してゆく。
 玲奈は吹きつける風から逃れるように身を縮こまらせると、猛の隣に移った。
「どうして、ここに?」
「私は大学に行くところ。七瀬君は?」
「見ての通り、ランニングだ」
 その場で足踏みをして見せると、玲奈はくすりと笑った。
「そうだよね。七瀬君、プロの選手だもんね」
「ああ。今シーズン、数える程だけど一軍の試合にも出たんだぜ」
 甲子園優勝校の名遊撃手としてプロにスカウトされた猛は、一年目から実力を買われ、しばしばその実力を観衆の前で披露していた。高校卒のルーキーが一年目から活躍できたのは、勿論彼自身の能力がずば抜けていたこともあるのだが、主な要因はチームメイトの翔一にあった。キャンプから、ずっと共にトレーニングをしてきた翔一の監督への提言が無かったら、恐らく自分はまだ二軍生活だっただろう。
 翔一が何故猛を手塩にかけるのか、一度だけ聞いたが答えてはくれなかった。猛としても一向に構わないことなので、それ以上深入りはしなかったが。
 少女、誇らしげに胸を張る猛を目を細めて見つめていた。
「――うん、知ってる。試合、ずっと見てたから」
「ホントに? 俺の、出てる試合?」
 少女は小さく頷くと、目を瞑り呪文の暗唱のようにすらすらと猛の成績を羅列し始めた。
「出場試合数、63回。内スタメン22回、代走12回、守備固め19回。打率は――」
「ストップ! そこまででいいって!」
 このままでは、本当に細かいところまで全て暴露されてしまいそうな勢いだ。苦手なバッティングの成績の前に、慌てて手を振り止めた。
 今度は、玲奈が胸を張る番だった。
「えへへ、凄いでしょ?」
「ああ、凄い。さすがはマネージャーだな」
 その時、少女の顔に影が差したことに、猛は気付く由も無かった。玲奈はすぐに笑みを繕うと、あ、と何かを思い出したかのようにぽんと手を打った。
「そういえば私ね、あの大神財団の感謝旅行、当たったんだ」
「ホントに? 実は、俺もなんだ」
「え――、七瀬君も?」
「ああ、すごい奇遇だな! いやー、お互い運がいいよな」
 にこにこと嬉しそうに話す少年を、玲奈はぼんやりと見つめていたが、やがて寂しそうに笑うと顔を伏せた。わざとらしく腕を捲くり時計を確認すると、少女は猛に背を向けた。
「ごめん。そろそろ私、行かなきゃ」
「ん? そっか。大学生だもんな。じゃあ、またな。霧島さん」
 自然に、別れの挨拶をしたつもりだった。汗も引いてきたし、風邪を引く前にそろそろ帰るべきだと理解していた。
 それでも、またね、と返事をする少女の背中があまりにも小さく見えたから。
 猛は、その寂しげな背に向けて声を張り上げた。
「なあ、霧島さん!」
「――え?」
 口の動きは、そこで停止した。
 俺は、何を言うつもりなんだ?
 思考が、止まる。白い光が頭の中で弾け、目の前が眩んだ。少女は、不思議そうな表情で次の言葉を待っている。期待と恐怖の入り混じったその双眸は、今にも泣き出しそうに見えた。早く、言葉を繋がなくては。
 それでも、言いたかった言葉は既に頭の中には見つからなくなっていた。
「あ――、ご、ゴメン! なんでもない!」
 無理矢理、誤魔化す。脈絡も何も無い最悪の方法だった。玲奈の表情が、呆れに変わる。
「もう、しっかりしてよね。プロの選手なんだから」
「あ、ああ。悪い、時間とらせちゃって」
 玲奈の背中が小さくなってゆく。強く、欄干に拳を叩きつける。皮膚が裂け、真っ赤な血が滲む。無性に気が立っている。何が言いたいのか分からなかった自分に、そしてこの正体の分からない感情に。
 風向きが変わっている。朝日は煌々と全身を照らしていたが、ちっとも暖かいとは思えなかった。
「帰ろう」
 誰ともなしに、呟く。少し、クールダウンしすぎたのかもしれない。
 切った箇所が、今頃になってじわじわと痛み始めていた。











 寒気を感じて、翔一は目を覚ました。いつの間にか、すっかり寝入ってしまったらしい。
 太陽はすっかり昇り、もともと日照条件の悪いこの部屋は冷え込む一方になっている。こんなことで風邪を引いては冗談にもならない。上着を羽織ろうと、天井に吊るしてあったジャージに手を伸ばした時、ポケットに無造作に入っていた紙切れがひらりと落ちた。
 拾い上げて、中身を覗いたところで翔一の動きが止まる。
 それは、殴り書きで『午後一時、厳守』とだけ記されただけのメモだった。
 時間を確認する。記されたタイムリミットまで、あと十分。
「ギリギリじゃねぇか……」
 手をかけたジャージを羽織り、アパートを飛び出す。目指す場所は、外藤の経営する小さな小料理屋。今日は極亜久高校野球部の同窓会だ。すっかり失念していた。外藤の怒る顔が、鮮明に思い出される。走るペースが速まる。
 まるで定められたかのように、平穏は訪れない。今の、自身の最高速に近い速度でも間に合うかどうか微妙なところだ。日頃の行いを、本気で改める必要があるかもしれない。
 残り五分。商店街の入り口に着く。ここを突っ切った先が目的地。
 残り三分。最後の曲がり角に差し掛かる。ここを曲がれば、あとは信号が一つあるだけ。
 残り一分、やっと扉の前に辿り着いた。膝に手をつき、獣のような荒い呼吸をしながら胸を撫で下ろす。
 「いつか、どんと店を構えたるで!」が口癖だった外藤さんが建てた念願の店は、その大志に反して小ぢんまりとしたものだった。それでもお客さんはちゃんと来ているらしく、中々休みが取れないという愚痴をよく翔一にも漏らしている。その度に翔一は臨時休業を提案するのだが、「お客さんが待っているかもしれんのに休めるかいな!」と喝を入れられる。結局どうすることも出来ず、彼はただ延々と、右から左へ愚痴を聞き流すことに専念するのだ。
「ギリギリ、セーフ。間一髪だな、やれやれ」
 溜息をつくと、引き戸の取っ手に手をかけ、久し振りに仲間たちに会える期待と共に一気に開けた。
「ちわ、外藤さん。ギリギリだけど、セーフですよね」
 中では既に、級友たちが集まり談笑をしていた。その視線が、一斉に翔一に向かい、一様に目を丸くする。開かれた口が、わなわなと震えながら言葉にならない声を漏らし、それはやがて阿鼻叫喚へと変わった。
「きゃきゃきゃきゃ、キャプテン!????」
「ゆ、幽霊か! 幽霊なのか!? やめろ、呪わないでくれー!!」
「ハッハッハ、お前は化けて出られるのか! たまげたヤツじゃの、ホントに!」
「あ、あり得ません! 死んだ人間が生き返るなんて! これは夢これは夢これは夢――」
 思い思いの再会の言葉を口にする親友たち。その中でも、平山だけは冷静だった。
「なんだよみんな、キャプテンのわけないだろ? コイツは、キャプテンの従兄弟で――」
「はぁ? なに言っとんのや、平山。コイツは正真正銘、三矢翔一本人やで?」
「え? てことは、ホントにお化けェェェェェ!!!!!!」
 平山は叫び声を上げるとその場から逃げ出し、店の隅でガタガタと震え始めた。何故だろうか、翔一は突然目頭が熱くなって目元を押さえた。
「亀田、みんなに事情を説明しなかったのか?」
「当然、知っていると思ったから何もしてないでやんすよ……」
「本当か……というか、俺、これでもプロ選手なんだが」
「あんまり活躍してないからでやんす〜」
 亀田の首を掴むと、頭から机に叩きつけた。ぐしゃ、と小気味のいい音がしたが気のせいだろう。
 この状況をどう収拾しようか考えあぐねていると、大皿一杯に乗ったたこ焼きを運び終えた外藤がぽん、と手を叩いた。みんなの注目が、一気に外藤に集まる。
「細かいことはどうでもええやろ。とにかくこうして集まってるんや、難しいこと考えんな、なぁ?」
 一同、考え込むように俯くと、それぞれ自分なりに結論を出し問題を解決した。
「まぁ、そうかもな。三矢なら幽霊にくらいなれそうだしな」
「そッスよねえ。なんせ奥さんがあの――」
「ストップです、武田君。それ以上その話題は口にしないで下さい」
「美味そうなたこ焼きじゃの、外藤さんの手作りか?」
「当たり前やないか! 熱いうちに食べぇや!」
「わーい、食べ放題でやんす!」
 亀田は意外と丈夫だ。
「許してくれぇ! のりかさんとのデートをビデオに撮って、みんなに見せて回って楽しんでたのは謝るからさ! 呪わないでくれよぉ!」
 平山はまだダメだった。











「――ちゅーわけで、田中と鈴木はダメやった。ボブも帰国するチケットが取れなかったらしい。まぁ年末やし、仕方が無いかもな。三兄弟は揃って海外旅行だそうや」
「はぁ……それで、佐藤と由紀ちゃんは?」
「由紀ちゃん、だぁ?」
 由紀ちゃん、という言葉に平山の耳がぴくりと反応した。酔いの回った赤ら顔を翔一に近づけ、酒臭い息を振りまく。翔一はたまらず顔を反らした。
「由紀ちゃんはなぁ、佐藤のバカヤローと旅行中だよぉ、チクショウ!」
「臭い。顔を近づけるな」
 平山の額を押し戻すと、自身も酒を呷る。狭い店内は、男数名の飲酒で既にアルコールが充満している。酒に強い外藤はまだシラフだが、同輩は全滅だった。翔一自身も、この空気の悪さによって確実に酔ってきているのを感じていた。そろそろ、排出した方がいいかもしれない。席を立つ。
「ん? どうしたんや」
「トイレです。そろそろ、厳しいんで」
「三矢君はぁ、ドリルでやんすぅー!」
 無言で亀田の顔を机に埋没させると、そそくさと奥の厠に向かう。よほど客席の空気が悪かったのか、換気扇のあるトイレの空気がやたらと澄んで感じられた。用を足し終え、洗面所で火照った顔を冷やす。クリアになった視界に、壁に張られていたチラシが入った。
 それは、外藤のポリシーであった無休を打ち破る、お知らせのチラシだった。
 そのチラシを無造作に破ると、平然と何杯目か分からないジョッキを空にした外藤の手元に置いた。
「珍しいですね。あなたが臨時休業だなんて」
「んん? ああ、それか」
 なんてこと無い、といった様子で、外藤はにやりと誇らしげに笑った。
「実はな、ワシ、当たってしもたんや」
「ああ、生魚でも食べたんですか? お体には気をつけてください」
「アホか! そっちの当たるや無いわ、ボケ。日にち、見てみい」
 言われた通り、チラシに記された休業の日程を確認する。それは、丁度あの旅行の期間と重なっていた。
「これって――」
「せや、年末年始・無人島ツアー! 悪いがこればっかりは仕方が無いやろ?」
「まぁ……そうかもしれませんね」
「歯切れ悪いやっちゃな。もしかして、羨ましいのか?」
 高を括った発言に、翔一はムッとした顔で返した。
「そんなことは無いです。俺だって、当選しましたし」
「お? なんだぁ、キャプテンも当たったッスかぁ!」
 武田が横から割り込む。口調からして、武田も当選者のようだった。もたれかかってくる武田を必死に突き放す翔一に、さらに負荷が加わる。
「おやおやぁ、奇遇ですねぇ、僕も当たっているんですよ?」
「おう、ワシもじゃ! ガハハハハ!」
「俺も当たってるぜ、キャプテン」
「オイラもでやんす!」
 飛び出てきた亀田のこめかみを掴むと、そのまま壁にめり込ませる。が、その手はすぐに弾かれた。
「今回は、オイラ何も悪くないでやんすよ!」
「悪い。条件反射だ」
 まったく悪びれない様子で謝る。これで、この場にいる全員が旅行の当選者ということになった。
「なんや、みんな当たったんかいな! 土産話仰山したろうと思ったのに、ガッカリやな」
「いいじゃないでやんすか外藤さん、パーッとやるでやんすよ!」
「そうじゃの、面白そうじゃ」
「何だか合宿みたいですね、ここまで多いと」
「ふん、まぁ俺も知り合いの女の子は落選だったし、付き合ってやってもいいかな」
「おおおお、盛り上がってきたッスぅ!」
「そやな、みんなで行くってのも、悪くないな」
 他のメンバーに乗せられ、外藤の表情もすぐに明るくなった。立ち上がりその姿を厨房に消したかと思いきや、すぐにビール瓶の籠を持って現れた。歓喜の声が上がる。
「よっしゃ! それじゃ乾杯や、前打ち上げや! 今日はパーッと飲み明かすで!」
「おおーっ、気前いいじゃん? ほれキャプテンキャプテン、お前も飲めよ!」
「そッスそッス、最後までシラフなんてダメッスよ!」
「いや、別に俺は酒は――」
「ええい、無理矢理飲ますでやんす!」
 両手を体の前に出し必死に拒否サインを出すも、無常にも翔一の口に瓶の口が運ばれる。頑なに口を閉じ拒否していたが、男三人の力に叶わず、口内にアルコールがどぼどぼと蓄積されてゆく。運が悪いことに、無理な飲み方をした所為で翔一は咳き込んでしまった。顔が急激に赤みを増し、脳味噌が沸騰する。目の前の光景がぐわりと歪むのを、翔一はぼんやりとした意識の中で当たり前のように見ていた。
「ハッハッハ、キャプテンも出来上がったようじゃの?」
「それじゃ、オイラたちも乾杯でやんすー!」
 高らかに鳴る、グラスのぶつかる音。翔一の意識は、そこでぷっつりと途切れた。

「なあ、俺にも話を振ってくれない? 俺も当選したんだよ?」
 平山は無視され続けていた。











「む……頭が、クラクラする……亀田め、クソ」
 夜、アパートへの帰路。翔一はすっかり千鳥足になっていた。
 一向に酔いの醒めない頭を摩りながら、明日の二日酔いがほぼ確定的である事実にがっくりと項垂れる。
 街灯の一つ一つが白く歪み、やたらと眩しく見えた。壁に手を付きながら、なんとかアパートの前に辿り着く。自分の部屋が二階にあるのを、これほど憎んだことは無かった。
 ノブ、回す。鍵はかかっていない。そういえば、施錠せずに出てきたような。そう考えたとき、カレーの匂いが漂っているのを感じた。
 ――しまった。
 恐る恐る、居間を覗く。少女が、こちらに背を向けて座っていた。表情、見なくても怒っていることは丸分かりだった。ちゃぶ台の上には、ラップのされたカレーが二つ置かれてある。
「む……ただいまだ、ヒナコ」
 ヒナコは無言。必死に弁解の言葉を組み立てようとするも、酔いの回った脳はまともに働いてくれそうに無かった。翔一が立ち尽くしていると、壁を向いたままのヒナコから声が発せられた。
「――ウソツキ」
「ぐっ!」
 たった一言、だがその一言が痛烈に翔一の胸を抉る。弁解の仕様も無い、用事が無いといったのも、メニューを依頼したのも、遅く帰ったのも全て翔一であった。翔一は想像の中でしこたま亀田を殴りつけ壁に埋没させると、両膝を付き土下座をした。
「悪かった。全て俺が悪い。本当に申し訳ない」
「……」
「すまない、悪いと思ってる。全面的に俺の所為だ。あ――、いや、ちょっとくらい、亀田」
「……」
 空気が、少し険悪になったように感じられた。
「酷いよ、翔一さん。約束したのに」
「ああ……」
「わたし、一緒にご飯が食べられると思って楽しみにしてたのに」
「――本当に、すまないと思っている」
 少女の体が反転する。ヒナコは膨れ面のまま、面を下げたままの翔一を見下ろした。
「うぅん、わたしもホントは分かってる。翔一さん、楽しかったんだよね」
「……ああ」
「でも、やっぱり約束は守らなきゃダメだよ」
「そう、だな」
「だから、わたしのお願いを一つ聞いて。そしたら、許してあげる」
「本当か?」
 翔一が面を上げる。少女の相貌、優しい色を湛えている。
「うん。あのね、無人島で、二人っきりで初日の出が見たいの」
「そんなことで、いいのか?」
「――うん。それで、日の出を見ながら、キスがしたい。わたしを全て包み込んでくれるような、永遠としたくなるような、優しいキスが、欲しいの。そしたら、許してあげる」
「ああ、任せろ。ずっと、離れられないようにしてやる」
 暖かい微笑みが、翔一に向けられる。少女はカレーのラップを外すと、残念そうに首を振った。
「もう、冷めちゃったね」
「ああ。でも、ヒナコが作ったなら絶対に美味い」
 少女の向かいに座り、にこりと笑いかける。ヒナコ、弾かれたように頷いた。
 スプーンで、ルーを一掬いし口に運ぶ。甘いスパイスの効いた、翔一好みの味だった。
 親指を上げ、笑ってみせた。
「美味い」
 満足そうにカレーを頬張る翔一を、ヒナコは慈母のような優しい目で見守っていた。