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 十二月二十八日、早朝。まだ夜も明けぬ時間だというのに、七瀬家の玄関にはその一家が勢ぞろいしていた。猛は、使い古した運動靴の紐をきつく締めると、立ち上がり両親に向き直る。
「じゃ、行ってくるよ」
「ふぁ……車に気をつけるんだよ」
「母さん、遠足じゃないんだからさ」
 寝惚け眼をさする母は、まだ眠そうに欠伸をしている。口上を聞いていると、息子をまったく心配していないようにも思える。父親が、咎めるように声を低くした。
「そうだぞ母さん。猛が行くのは無人島だ。事故が起こってもおかしくは無い」
「父さん……」
 やはり、息子のことを一番良く理解できるのは父親なのかもしれない。
 猛が父を尊敬の眼差しで見つめていると、父はにっこりと笑い息子の肩を叩いた。
「というわけで。事故が起こると危ないから、私が代わりに行ってあげよう」
「一瞬でも尊敬した自分を恥じるぜ」
「いや、私は本気で、お前の心配をだな」
 猛は深く溜息をつくと、中身の詰まった大きなスポーツバッグを手に取った。中は、着替えだけでなく野球の練習用具まで詰まっている。重くなるから、と反対した母に対し、猛はいつも通り、敬愛する先輩の口癖を持ち出し強引にバッグに詰め込んだ。プロたるもの、日々の精進を忘れることなかれ。翔一の言葉はいつだって絶対だ。
 腕時計を覗く。集合時間は、着々と迫ってきていた。
「じゃ、今度こそ行くから。父さん母さん、よいお年を!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「お土産はよく選べよ!」
 猛は軽く歯を見せて笑うと、元気よく家を飛び出した。冬の冷気が、身を包む。
 自転車を跨ぐと、荷物がぶつかり小気味のいいベルが鳴った。まだ眠りの覚めぬ住宅街では近所迷惑かもしれないが、今の猛には微塵も気にならなかった。待ちに待った旅行の日、少年の心此処にあらず。猛は勢いよくペダルを踏み込むと、風を全身に浴びながら道を走り出した。











 目的地である極亜久高校跡までは自転車で三十分とやや遠い場所にある。父と母は車でそこまで送ろうかと提案したが、猛はそれを拒んだ。自分も立派な社会人、十九にもなって親に送ってもらうのはなんだか恥ずかしい。そう考えた末の自転車だ。
 だが自分で出したこの結論に、猛は早くも音を上げ始めていた。十分を過ぎたあたりで、両足は既に乳酸漬けでパンパンになっている。ただペダルを踏むという作業が、ここまで億劫だとは思っていなかった。
 ――それに、寒い。
 ハンドルを握る手の感覚が薄れている。手袋をしてくればよかったと、舌打ち。勿論手だけでなく、体中を打つ風によって体温自体が下がっている。家の中で、暑いと脱ぎ捨てた上着が恋しかった。唯一の救いは、首に巻いてあるマフラーか。黄色いマフラーを口元に寄せると、少しだけ暖かくなった。
「ん? 俺、マフラーなんて買ったっけか?」
 買い物嫌いの、かつファッションに関しては常人より遥かに疎い自分が、自分で身の回りのものを買いに行くとは思えなかったし、それに記憶も無かった。とは言え、誰かから貰った覚えも無い。
「母さんが買っといてくれたのかな? ま、暖かいからなんでもいいけど」
 毛糸で出来たマフラーは、何故か誰かの優しさで満ち溢れている気がした。
 夜の帳の向こうに、今は使われていない校舎がぼんやりと見えはじめた。所々ガラスの割れた学び舎は、お化け屋敷のようで不気味だ。景観を損ねる上、日照権などでも問題となっているこの校舎は、間も無く取り壊されるのだと地方新聞で見た事があった。特に縁も無いので、猛は気にも留めていなかったが。
 遠目に見え始めた校門の前は、大型のバスが三台停まり、既に多くの人で賑わっている。時間、まだ少し余裕がある。自転車を停めようと、ブレーキをかけゆるゆると減速したとき。少女の声が、聞こえた。
「遅いよっ、猛! 乙女を待たせるヤツは――、こうだっ!!」
 風切り音と共に、カーンという軽い金属音。額が熱を帯び、視界に火花が散った。そのまま、何かを考える暇もなく、猛は自転車ごと横転した。ガシャン、という大きな音が校舎に跳ね返る。
「い、イテェ……どちらかというと、体より額が……」
「もー、情けないわね。空き缶が当たったくらいで倒れないでよ」
 患部を摩る猛の目の前に、白い手が射し伸ばされる。顔を目で追うと、それはやはり見知った顔だった。
 その顔を見た瞬間、怒りは何処かへ消え、昔を懐かしむ思いが胸を満たした。柔らかく微笑みながら、少女の手を取る。
「バカ言うなよ。お前の空き缶は、プロのデッドボールよりも怖いっての」
「その減らず口も、なんだか久し振りだね」
「そりゃこっちのセリフだよ、リコ」
 少女――石川梨子の力を借りて、倒れた自転車と地面の間から這い出る。と言っても、ほとんど自力だったが。立ち上がると、梨子の頭が思ったより高い位置にあることが分かった。
「あれ? お前って、こんなに背ぇ高かったっけ?」
「何言ってんのさ、私は変わってないよ。猛、縮んだんじゃないの?」
「失礼な。つーか、ありえないだろ」
 否定しながらも、首を傾げる。想像の中の少女は、もっと小柄だった。
 まあ、梨子も成長したんだろうな。そう結論づける猛の周りに、わらわらと高校時代の級友たちが近寄ってくる。慌てて、梨子と繋いでいた手を離した。
「七瀬君、鮮烈な登場シーンでやんすねぇ。先が思いやられるでやんす〜」
「先輩! 一応プロ選手ですし、そういうのはスタントを使わないと!」
「平気よ春香ちゃん。七瀬君はこの程度なら大丈夫よね?」
「ハッ、朝から手なんか取っちゃって熱いねえ。小晴が当選すりゃ、俺だってなぁ……」
「けっ、お前ら……少しは心配しろよ」
 自転車を校内のグラウンドに運びながら呻く。湯田、玲奈、春香、有田。どうやら既に知り合いだけで五人以上が当選しているようだった。ただでさえ確率の低い当選率だというのに、この人数。微かな違和感が脳裏を掠めた。
「これも何かの縁だよね。すごく楽しそうな旅行だし」
 森盛が嬉しそうに屈託無く笑う。確かに、そう考えると小さな疑念などどうでもよくなってくる。賑やかにバカ騒ぎをしながら迎える年越しは、とても楽しそうだった。
「それにしても凄いですよね。先輩と湯田先輩、二人もプロ野球選手がいるなんて」
「確かにそうね。あの弱小野球部が、二人もプロを出すなんて。ホントにビックリよね」
「ふふん。オイラたちの実力の賜物、でやんす」
 胸を張る湯田に、男性陣から突っ込みが入る。
「そうか? お前、あんまりテレビで見ないぞ」
「うん。キャッチャーとして言わせてもらうと、古河君と周君の方が凄かったし……」
「まぁ、実力の賜物ってのは俺のことを言うもんだぞ」
「む、ムキーッでやんす! 来年こそは目に物言わせるでやんす!」
 地団太を踏む湯田を、みんなの楽しげな笑い声が包んだ。











 集合時間ギリギリになって、ヒナコの手を引きながら翔一は現れた。ここまで走ってきたのか、ヒナコは荒い息をしながら膝に手をついている。荷物の入れ込みが始まっていた事を目視しすと、翔一は慌てて二人分の荷物を乗務員に渡した。
 額の汗を袖先で拭く翔一に気が付いた猛が、級友の輪から離れ二人に近付く。
「遅かったですね、翔一さん。寝坊ですか?」
「ああ、そんなところだ。ヒナコ共々、熟睡してな――イテテ」
 冷静に返そうとする翔一の脇腹を、ヒナコが抓っていた。
「い、いや、本当は俺だけだ。ヒナコはいつも通り、早起きだった」
 ヒナコの拘束が解かれ、ふぅ、と溜息を吐く。本当は、起こそうとしたヒナコに寝惚けて膝枕をさせ、挙句の果てにその上から断固として退こうとしなかったのだが、後輩の前では恥ずかしくてとても言えたものではなかった。
 その夫婦漫才のような一コマを見ていた後輩は、ぷっと吹き出し翔一に耳打ちした。
「結構、尻に敷かれてるんですね」
「バカ言うな。今日はたまたまだ」
「意外ですよ。あのクール&キザの翔一さんがねぇ」
「何だ、その妙な謳い文句は。というか、いつもは俺が尻に敷いてる」
「本当ですか?」
「ああ。それこそ主従関係の如くな」
「――翔一さん。全部、聞こえてますよ」
「ぐっ――」
 冷たい声で振り向くと、そこには体中から怒気を滲ませたヒナコが立っていた。男二人、思わずゴクリと唾を飲む。ヒナコはしばらく押し黙ると、ぷい、と頬を膨らませそっぽを向いた。猛、翔一の腹を小突く。
「拗ねちゃいましたよ」
「ああ。こういうときのヒナコは中々機嫌が直らない」
 冷静に状況を分析する先輩に、猛は呆れたように腰に手を置いた。
「翔一さんの彼女なんでしょ、なんとかした方がいいんじゃないんですか?」
「う、む……分かった、分かったよ」
 罰が悪そうに頭を乱暴に掻き毟ると、ヒナコの手を取る。驚き、見開かれた大きな眸子を、上から覗き込むように寄り添った。少女の顔に、朱が差す。
「その――悪かった」
「翔一さん、そればっかりね」
「ああ。口下手、だからな」
「うん、分かってる。その上、見栄っ張りだもんね」
 くすりと、意地悪そうに笑う。今度は、翔一の顔が赤くなった。
「べ、別に、俺は」
「――それではみなさん、そろそろ出発になるのでバスにご乗車くださーい!」
 乗務員の呼びかけが、翔一の言葉を遮る。翔一は息を吐きながら大きく頭を振ると、ポケットに手を突っ込み乗り込み口へと歩き出した。
「あっ、待ってよ! 翔一さん!」
 ヒナコはぺこりと猛に頭を下げ、すぐに翔一の後を追った。飛びつくように後ろから腕を絡めると、翔一の顔が耳まで真っ赤になるのが後ろからでも見て取れた。
 なるほど、あの人にもこんな一面があったのか。
 にやにやと、その様子を二人が車内に消えるまで見ていた猛は、自身もそのバスへと歩き出した。自然と、スキップのような足取りになった。











 車内はまだエンジンが入っていない為暖房が効いていなかったが、それでも外に比べれば幾分もマシだった。まだ座席に人は疎らだが、楽しげな歓談は静かな空気を割り耳によく入った。猛は適当に前の方の席を見遣ると、窓際の椅子にドカッと腰を下ろす。腫れた足を休められた安堵から、ほっと溜息が漏れた。
「どうした猛。もう、お疲れか」
 前の座席から、翔一が身を乗り出し振り返ってこっちを楽しげに眺めていた。適当に選んだのだが、どうやら翔一とヒナコの真後ろだったらしい。猛は苦笑しながら筋肉の硬直した足を摩った。
「ええ、準備運動しないで長時間筋肉を使ったせいか、ちょっと疲れちゃって」
「日々の積み重ねが、足りない証拠だ」
「そんなこと無いですよ。毎朝ちゃんと走り込みは続けてます」
 猛の反論に、翔一の隣に座っていたヒナコはくすくすと口元に手をやり笑った。
「偉いじゃない。翔一さんとは大違いね」
「ん、俺もトレーニングは毎日しているぞ」
「うん。でも、朝は絶対起きないよね」
「あ、ああ……」
 図星を突かれた翔一、口を真一文字に結びながら呻いた。この二人の関係は、いつもこんな感じなのかもしれない。高嶺の存在だった先輩との距離が、最近ぐんぐん近くなっているような気がした。
 ちょうどその時、乗車口がガヤガヤと一層賑わいを増した。何事かと様子を窺うと、先程まで話をしていた花丸高校OBの集団が一斉に入ってきていた。こちらの姿を確認した湯田が、明るい口調で口を尖らせる。
「水臭いでやんすよ、猛君! 友達なら一声かけるでやんす!」
「ああ、ゴメンゴメン。早く座りたかったからさ」
「ジジ臭いよ、猛。そんなんじゃ無人島でめいっぱい遊べないよ?」
「ほっとけ」
 ふて腐れた猛の隣に、梨子が座り込む。へへ、と得意げに少年に笑いかける少女から、玲奈は小さく息を呑んだ後すぐに視線を剃らした。猛、それには気付かず、ジト目で隣に飛び込んできた少女を睨んだ。
「猛の隣、もーらった! ねえねえ、何して遊ぶ?」
「バカ言うな。車内からテンション高すぎだろ、お前。バスは格好の睡眠スポットって知ってるか? 適度に効いた空調、揺りかごのように心地よい振動。そして高速バスの静かなエグゾースト・ノイズ。どれをとっても、これ以上の睡眠適応地は無いな」
「そんなのいちいち解説しないでよ、もう。それに、そんなの勿体無いじゃん。だってさ、着くまで何時間あると思ってんの?」
「知らない。ま、結構あるならゆっくり寝られるな」
 背もたれに身を預け、頭の後ろで手を組む。このまま到着するまで寝てしまいたかった。
 ――だが、記憶に残っている少女がそれを許すわけも無く。
 瞼の裏の空気が、ぐわりと歪んだように感じられた。
「ふーん、そういう態度とっちゃうんだ」
 睫毛が知らず震える。恐る恐る目を開けると、出所不明の空き缶を大きく振りかぶった少女の姿が見えた。その威圧感に、思わず生唾を飲み込む。
「ちょ、ちょっと待てよリコ。気に障ったなら謝るから、な?」
「うん、素直なのはいいことだよね。でも、ちょっと遅いかな」
「悪かったって! お詫びになんでも好きな遊びに付き合ってやるから!」
「それも遅いよ。女の子を待たせるのは、男として恥じるべきだよ」
「か、可愛いぞリコ! そのスレンダーなボディが最高だ!」
 半ばヤケクソに、猛が叫ぶ。少女はにこりと微笑んだが、その目はちっとも笑ってはいなかった。
「それは暗に、私のが真っ平らってことを言ってるの?」
「い、いや、決してそんなことは! 確かに、久々に会っても成長が無いとは思った――あ」
 慌てて口を両手で塞ぐ。だが、もう遅い。少女の双眸が、きらりと光った気がした。本日二回目の伝家の宝刀が抜かれる。妙に質量のあるスチール缶は、少年の額のど真ん中を寸分違わず打ち抜いた。
「ああっ、猛君が白目剥いてるでやんす!?」
 友人の叫び声を聞きながら、猛の意識はゆっくりと閉じていった。











 まどろみの中にいる。睡眠は絶対なる平穏だ。心の落ち着く温もりは、いつまでもそこに留まりたくなる中毒性を持っている。だがそのつかの間の休息は、翔一の怒声で突然終わりを告げた。
「おい、起きろ! 猛!」
 肩を強く揺さぶられるも、車内の温もりが助長しなかなか起きる気にならない。
「ぅぅん……なんですか、翔一さん……眠いからあとにしてくださいよ……」
「寝惚けている場合じゃ無いんだ、起きろ!」
 翔一のただならぬ様子に、渋々と言った様子で薄目を開ける。鋭い目つきでこちらを睨む翔一と、心配げに車内を見回すヒナコの姿が視界に入る。どちらも何故か、口元にハンカチを当てていた。
 窓の外の景色、絶えず流れ続けている。いつの間にか、海辺の道へと移動していた。
「どうしたんですか? まだ運転中なのに、大人気なく立ったりして」
 起こされた不満からか、何処と無く気の立った調子になった。翔一はさらに目を細めると、指で隣を示した。横を見ろ、ということだ。言われた通りにすると、隣の座席の梨子、そして通路を挟んで向かい側の湯田と玲奈までもがぐっすりと眠り込んでいるのが見えた。確かに、あれほどはしゃいでいた梨子が寝たのは不思議を通り越して雨さえ降りそうな感じではあったが、わざわざ人を起こしてまでする話には思えなかった。寝起きの機嫌の悪さを隠さず、翔一にぶつける。
「ハァ、これがどうしたんです? まさか、これだけの為に起こしたんですか?」
「そんなわけ、無いだろ。全体を見てみろ。お前も、口に何か当ててな」
 ハンカチを通して、くぐもった低い忠告の声が聞こえた。訳が分からない。憮然とした表情で、それでも言われたままにポケットからハンカチを取り出すと、口元に当てながら立ち上がる。体を反転させたところで、はっと息を呑んだ。
「な――、なんですか、これ?」
「さあな。だが、尋常じゃ無いってことは解ったな」
 ――その光景は、異様としか言いようが無かった。
 この三人を除いて、全ての人間が眠りこけていた。その様も、背もたれに寄りかかっているなら、まだ理解できたものだ(それでもかなり異常ではある)が、そんな人間は数少ない。ある人は前の座席につんのめるように、ある人は隣に被さるように身を擲って、またある人は地面に倒れ込むように、不自然な体勢で眠っている。そのあまりにも常軌を逸した光景に、猛は全身に悪寒が走るのを感じた。
 隣の席で、死んだように首をだらりと下げながら寝ている梨子の肩をひっ掴む。抵抗無く、少女の体が猛に預けられた。
「おい、リコ! どうしたんだよ! 起きろって、なあ!」
 返事は、無い。ただ規則的に小さな寝息の音が返ってくるのみだった。
 背後から、いつも通り冷静な、だがどこか焦りを帯びた翔一の声が聞こえた。
「恐らく、暖房から何か別の気体も流れている。あまり換気口に近付くな」
「どうして、そんなことが?」
「走った所為で体が暖まっていたから、俺とヒナコは暖房を切っていた。そして、出発前から寝ていて呼吸量の少ないお前。この三人が、今眠っていない。飽く迄、推測だがな」
 翔一、通気を試みるため窓を調べるが、どこにも取っ手が存在しないと気付き拳を座席に叩き付けた。頬を、一筋の汗が流れている。ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。
「これって、どういうことなんですか!」
「さあな。だが、何かマズい――そんな予感だけが、俺の胸のうちに、ある」
 翔一、二、三歩後ずさると、裂帛の気合と共に長い足を振り上げ、強かに窓に打ち付けた。だが、二重にはめ込まれた防弾ガラスはがん、という鈍い音を立てるのみで、翔一を乱暴に弾いた。ヒナコが慌てて倒れこみそうになった体を支え、なんとか立ち上がる。
「クソ、ダメか」
 躊躇い無く蹴りを放つ先輩。さすがに罪悪感を覚え、小声で嗜める。
「翔一さん、いくらなんでも、それはやりすぎじゃ」
「どうだろうな。ただ俺は、ここまでしてもおかしく無い状況だと思うが」
「そんな……翔一さん、わたし、怖い……」
 顔に不安の色を張り付かせ、肩を抱いて座り込むヒナコを、翔一は優しく抱き耳元で囁いた。
「大丈夫だ。俺が、なんとかする――俺が、守る」
 ヒナコの頭を撫で、翔一が立ち上がる。不意に、その光景が、歪んだ。
 マズい、眠くなってきた。猛は、ふとすれば堕ちそうになる意識を、頬をパチリと叩き鮮明にすると、椅子を手すりにしながら立ち上がった。時間切れが、刻一刻と近付いている。
「猛! 同時に蹴るぞ! 一二の三で、全力で蹴り込め!」
「――は、はい!」
 本能は確実に睡眠に堕ちようとしている。ともすれば切れそうになる意識を一瞬の為に集中させる。
 足に、力を込めろ――
「一、」
 眠い――このまま、寝てしまってもいいんじゃないのか?
「二の、」
 そもそも、これも何かのイベントなのかもしれない。だったら、寝ても問題は無いはずだ。
 ――その時、猛の意識は、ぷっつりと断絶した。











「三!」
 掛け声と共に窓を蹴った足は、一本。翔一が反動で倒れこむのと同時に、少年の体が崩れた。駆け寄り体を揺するも、猛は地にうつ伏せに倒れたまま動かない。翔一の内心、焦燥だけが増大してゆく。
 俺だけでも、やるしかない――!
 さらに打撃を加えようと、翔一が腰を落としたとき。
 少女の叫び声が、その意識を根こそぎ掻っ攫った。
「い、イヤァッ!! 助けて、翔一さんっ!」
「ヒナコ!?」
 慌てて、振り向く。仰々しいガスマスクをつけた乗務員の女が、ヒナコの口に布切れを、そして喉元にナイフをあてがっていた。少女の大きく見開かれた眸子は、やがて光を失い闇に閉ざされる。翔一、拳をわなわなと震わせ強く地団太を踏んだ。
「そこまでにして下さい、お客様。大人しく眠ってくださいませ」
「言われなくても、俺も、ここまでだ」
 激しい運動で、体は新しい空気を求めている。大量に吸い込んだ気体の睡眠薬は、徐々に翔一の体を蝕み、ようやく今その効果を実らせていた。混沌とする意識の中、ヒナコに向かって手を伸ばす。
「ふふ、フェミニストね。こんな女の子に固執するなんて」
「だ……ま……れ…………」
 だが、弛緩しきった腕は、ヒナコの体に触れるよりも早くだらりと垂れ下がった。そのまま、前のめりに、少女を求めるかのように倒れ伏す。女はヒナコの体を適当に放ると、もともとの仕事がそうであったように、車内の奥まで歩き乗員の様子を確認する。全員が眠っていることを確認すると、マスクの下でにんまりと微笑みナイフを仕舞った。壁に備え付けてあったマイクを手に取ると、わざとらしい明るい声色で軽快に演説を始めた。
「はーい、もう間も無くして、このバスは船着場に到着しまーす! そして、みなさんにはそこから予定通り無人島に行ってもらいまーす! 楽しみですよねえ、キャハハっ!」
 口元に手を当て、さも楽しげに笑う。
 それを聞く者は、もう誰もいなかった。